“ダントツNo.1”への思いが成功を引き寄せる
2015年03月16日 公開 2024年12月16日 更新
《隔月刊誌『PHP松下幸之助塾』[特集:一流の決断とは]より》
奈良県の主婦が賃貸仲介で敏腕経営者に
奈良県の西の玄関口であるJR王寺駅を降りると、ひときわ目を引く「SANKO」の赤い看板。山晃(さんこう)住宅ホールディングスの本社ビルだ。賃貸住宅の仲介では来店者数、取扱物件数ともに、県内で圧倒的な強さを誇る。静岡県にも進出を果たし、その発展はとどまるところを知らない。そんな同社の躍進を支える前田祥子会長兼社長は、もともと不動産業については素人同然の“ふつうの主婦”にすぎなかった。なぜ賃貸住宅仲介の事業に乗り出すことを決断したのか。その背景には、公私にわたるさまざまな事情があった。前田氏自身が真相を赤裸々に語る。
<取材・構成:高野朋美/写真提供:山晃住宅ホールディングス>
妻として家業を支えるが……
私はもともと、ごくふつうの主婦でした。短大の被服科を卒業し、すぐに父の勧めで印刷業を営む男性とお見合い結婚したので、会社勤めなどしたこともなく、まったくの世間知らず。家族と住み込みの従業員の食事づくりに明け暮れる毎日でした。そのうち双子の男の子に恵まれ、育児にも追われるようになります。
そうしたなか、昭和39(1964)年ごろ、夫が「これからはゴルフだ」と言い、印刷工場をたたんでゴルフ練習場の経営を始めたのです。特段のお金持ちでもないのに、そんな資金をどんな方法で工面したのか、通常なら心配するところでしょうが、当時の私は「経営は夫のするものであり、妻の役目は夫の仕事を支えるものだ」と思っていました。育児と住み込みの従業員の食事づくり、それに練習場でのボール拾いや掃除などで慌ただしい日々。でも、それをつらいと感じることもなく、妻として当然と思っていました。
しかし、ゴルフ練習場がオープンして7年たったころ、とんでもないことが分かりました。ボールの飛散防止ネットを買い替えるため金融機関に融資のお願いをするときになって、私は初めて、夫がゴルフ練習場を建てたときに借り入れたお金をほとんど返済していないことを知ったのです。約1000万円。現在の金額に換算すると1億円ほどでしょうか。
ゴルフ好きの夫は、何かと時間を見つけては仲間とゴルフに出かけてしまい、自分の経営する練習場を留守にする人でした。そんな調子でしたから、まともな経営をしていなかったのでしょう。結局、ゴルフ練習場は廃業。多額の借金だけが残りました。
山晃住宅が生まれたのは、その1年後、昭和47(1972)年のことです。たまたま父の持っていた不動産会社が休眠状態にあり、夫が宅建の試験に合格したこともあって、不動産売買や建売の仕事をしようと思ったのです。当時は売買全盛の時代でした。
賃貸仲介のやりがいを知る
小さな事務所を構えたものの、最初はずっと閑古鳥が鳴いていました。夫は外出しがちで、店番をするのは私1人。
ところが2年ほどたったころ、私の運命を変える出来事が起こったのです。いつものようにガランとした事務所で店番をしていると、年配のご夫婦がお見えになりました。聞けば、結婚した娘さんのために、賃貸として貸し出している分譲マンションか一戸建てを大阪郊外で探しているとのこと。なぜわざわざ奈良の山晃住宅に来られたのかと思ったら、近くの神社にお参りした帰り、たまたま「不動産」と書かれた看板が目に入り、立ち寄られたようです。
ただ、当時は一戸建ての賃貸や分譲貸しのマンションなどほとんどありませんでした。県外の大阪の、しかもそんな数少ない賃貸物件を、不動産については素人の私がご紹介できるはずもありません。常識で考えれば、お断りするのがふつうです。しかし私は「お探ししてご連絡します」と答えました。そしてご夫婦がお帰りになったあと、「どうしよう」と考えました。
そのとき思いついたのは、大阪に電話帳を買いに行き、そこに載っている不動産業者に片っ端から電話をかけることでした。「大阪の業者なら物件の情報があるはず」と思ったからです。しかし10や20の業者に電話をかけても見つかりません。200軒くらいはかけたでしょうか。ようやく3つの物件を見つけることができました。
おぼつかない私の運転でご夫婦を物件にご案内すると、幸いにもそのうちの1件をとても気に入って、賃貸契約を交わしてくださいました。初めて仲介手数料を受け取ることができたのです。それでテレビを買いました。そのころの私は、子どもたちに服も買ってやれない苦しい生活をしていたので、ほんとうにうれしかった。
ご夫婦は「おかげでいい住まいを見つけられました」とお礼まで言ってくださり、事務所をあとにされました。その姿を見て、「経験のない私でも、空いている賃貸物件を探して、入居者に気に入ってもらえれば仕事になる、報酬がもらえるんだ」と思うと同時に、お客様に喜んでいただくことができたという充実感で心が満たされたのです。もしもあのときご夫婦のご要望をお断りしていたら、今の山晃住宅はなかったでしょう。
必死になると知恵が出る
初めての契約がうまくいったことは大きな自信となり、毎日のように空き物件を求めて車を走らせるようになりました。そして物件を見つけたら、持ち主のオーナー様を訪ね、「私に入居者探しを任せてほしい」と交渉するようになったのです。
☆本サイトの記事は、雑誌掲載記事の冒頭部分を抜粋したものです。
<掲載誌紹介>
2015年3・4月号Vol.22
特集「一流の決断とは」では、5人の方に登場いただきます。
特にシドニー五輪金メダリストの高橋尚子氏には小出義雄監督の門を叩いた決断と独立した決断、大きな試合で勝つための決断、 引退後の人生を支える決断などを、千本倖生氏にはイー・アクセスや第二電電などの創業や経営における決断を、 パナソニック客員の土方宥二氏にはみずからが運営に携わった「熱海会談」における松下幸之助の決断の姿を、それぞれ語っていただいています。
また、今号から短期集中連載「真実のウォーレン・バフェット」が始まります。ぜひご一読ください。