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生き方

人間関係、家族、仕事。悩みは「書く」ことで超えられる

下重暁子(作家/元NHKアナウンサー)

2015年12月07日 公開 2024年12月16日 更新

PHP新書『人生という作文』より

 ここへ来て、再び、自分史ブームだという。「あなたの本をつくりませんか」という広告をあちこちで見かける。自分史に限らない。エッセイ集、俳句集、短歌集、詩集、小説、形は何でもいい。ともかく自分の書いたものを活字として残しておきたい思いを持つ人が多いのは事実だ。

 メール、ブログ、フェイス・ブック、ツイッター等にしても、文字を使った表現にはちがいない。

 私も近年メールをすることはあるが、折角なら、情景が浮ぶ言葉を選ぶ。例えば、梨を送ってもらったら、「梨をありがとう。おいしかった」ではあまりにそっけない。「ベートーベンの『英雄』をききながら梨をいただいてます。みずみずしくて雄大で……」など書けば、私の様子をわかってくれるだろう。文字を使う媒体すべて、文章の勉強になる。喋り言葉だって、どんな言葉を選んで話したかによって、その人が浮彫りになる。

 言葉は自己表現のもっとも身近な手段である。書き言葉も話し言葉もその手段にちがいない。しかし大きなちがいがある。

 話し言葉は、消えていって、録音でもしていない限り、止ってはくれない。書き言葉は、文字として定着して、再び読むことが出来る。確認する作業が出来るのである。

  私は自分の出たラジオやテレビを再び見る事はしない。すでに喋った瞬間に過ぎてしまっているし、とりもどす事は出来ない。次への反省のために聴く・見るという人は多いが、終った時に、どこがよくなかったか、改めるべきかが自分自身でわかっているからそれでいい。

 書き言葉の場合はちがう。何度も何度も文章を読みなおす。その都度、新らしい発見があるし、自分の考えていた事、感じていた事を再確認する。

 ものを書くことは、確認の作業である。文章を書いた瞬間、それは自分の考えている事、感じていた事を確めて文字に刻んでいるのである。心の細胞の一つ一つを文字に置き変えているのである。

 

書くとは、自分自身を見つける事

 何も感じず、何も考えていなければ、自分の中から出てくるものはない。事柄だけを書く事は出来ても、それで終りである。一つの事を書いたら、自分に問いかける。「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と。少しずつ自分の内部を掘り進み、隠れていた鉱石に突きあたる。

 もうこの先へは進めない所で立ち止って、目の前にあるものを見て感じて触って確かめる。そこにある私自身を。

 書くとは、自分自身を見つける事なのだ。確かめつつ自分が何者かを知っていく。私たちは一番身近な自分自身を知らない。知るのが恐ろしい。そこに顔をあらわすのはどんな醜い断片であるかもしれず、思いがけない涙もろい私であるかもしれない。しかし直面して見なければいけない。逃げるわけにはいかない。

 こうやって自分を少しずつ知っていって、そして一冊にまとめたくなる。それは自分が生きた証拠である。

 一生に一冊、誰でも小説が書けるという。その人の生きてきた道程とその時々の感情や事柄の細部まで描いていけば、それはどこにもない、ただ一つだけの小説になる。そこに登場するヒーロー、ヒロインはあなた自身だ。恥じる事はない。今まで生きてきた事そのものが起伏に富んだ物語なのだ。

 「私の人生、平凡で平坦で何も書くような事はありません」という人を私は信用しない。自分という人間、自身の人生と向き合う事をしないただの怠情にしか過ぎないのだから……。

 林真理子氏が昨年、朝日新聞の朝刊に「マイ・ストーリー」という小説を連載していた。

 自分史など自費出版の作品を主なる仕事にする出版社の編集者が主人公だ。映画館を一人営業し続けてガンで亡くなった夫の事を一冊の本にしたいとやって来た、ちょっと男の気を引く美女。──かつてAV女優だった事もわかって来て、主人公の編集者と男女の仲になるが、本が売れ、テレビドラマ化されるにつれて、女は男から去っていく……。その男女の心と体のすれちがいが面白くて毎朝楽しみに読んでいたが、この小説は自費出版を頼みに来た女と夫だった人の自分史でありながら、ヒーローの編集者の自分史とも重なっていた。

 私の母も若い頃は文学少女だった。彼女が生涯続けていたのが、短歌である。高田女学校在学中は、同性の教師への思いを歌にし、その後再婚した父へも時々短歌を贈っていた。

 戦中戦後は作るのをやめていたが、晩年ふたたび作りはじめた。

 世の中のなべてのことに耐えて来し今さら我にものおじもなし

 辞世の歌である。ノートに記したものもあるが、ほとんどは広告の裏や切れ端に書かれていた。

 それを集めて歌集を作りたいと思っていたが、忙しさにかまけているうちに、脳梗塞で死んでしまった。一周忌のために、自費出版で私が一年がかりで編み、集った方々に配った。

 題して『むらさきの……』。紫が好きだったので、人間国宝安部榮四郎さんの薄紫の和紙で装幀して集った人々に贈り、残りの何冊かを今でも大切にしている。

 2、3メートル積雪のある上越の豪雪地帯の地主の娘に生まれ、深い雪の下に埋もれていたような情熱が短歌にはあらわれていた。

 20年以上続けているNHK文化センターの私のエッセイ教室でも、自分史を出版した人、教室で発表した自分のエッセイを集めて、エッセイ集にした人、そして毎回詩を書いてきて、やがて詩集を編むことを夢みている人……など、教室でテーマに沿った作品を書くだけで、自己確認をし、さらに一冊にまとめることで、ほんとうの自分と直面し、自分を深く知っていく。

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ものを書く時は、自分ひとりと向き合う時間

著者紹介

下重暁子(しもじゅう・あきこ)

エッセイスト

早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。女性トップアナウンサーとして活躍後、フリーとなる。民放のキャスターを経て文筆活動に入る。ジャンルは、エッセイ、評論、ノンフィクション、小説と多岐にわたる。財団法人JKA(旧・日本自転車振興会)会長等を歴任。現在、日本ペンクラブ副会長、日本旅行作家協会会長。主な著作に、『家族という病』(幻冬舎)、『老いも死も、初めてだから面白い』(海竜社)、『自分に正直に生きる』(大和書房)『持たない暮らし』(KADOKAWA)などがある。

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