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仕事

“絶対に「ノー」と言わない”では、お客様や部下が去っていく!

山崎武也(ビジネスコンサルタント)

2011年07月26日 公開 2022年09月15日 更新

人から何かを頼まれたとき、どうするか。好感を抱く相手なら、たとえ気の進まないことであっても何とかしようと努力するだろう。

一流の人には、自分のために動いてくれる「味方が多い」のである。ヘッドハンターの草分け、山崎武也氏が気配り仕事術を紹介する。

※本稿は、山崎武也 著『なぜあの人には「味方が多い」のか』(PHPビジネス新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

「気くばり」は人間関係をよくする最大のカギ

企業など仕事をする目的で人が集まっているところは、当然のことながら、最優先事項は仕事である。すべての場面において、仕事という視点に重点をおいて考え、判断をしたうえで行動に移していく。

だが、仕事においては常に効率やスピードを重視して、結果を出すことに専念する。そこで、ともすると機械的な処理をする傾向になりがちである。

考え方においても、目的を達成することを目指して、一直線に進んでいこうとする。脇目も振ってはならず、道草を食うなどというのは、とんでもない話だという雰囲気である。

そのように狭い意味での仕事至上主義に陥ってしまうと、仕事の場は無味乾燥なものになる。だが、仕事の場といえども、人生の一場面であることは紛れもない事実だ。それを無機質なままにしておいたのでは、たとえその一部ではあるとはいっても、楽しく過ごすべきである人生を無駄にすることになるのではないか。

仕事の中にも、潤いを加味する必要がある。人と人とが接する場面において、ほっとするような温かみを感じるとき、人々は救われた思いがする。お互いに人間同士であるという「共感」を確認するからだ。骨と同じ基盤の上に立っていることがわかると、そこで安心して仕事に打ち込んでいくエネルギーが湧いてくる。

そこで、人間同士の温かさを「演出」する手段の一つが気くばりなのである。ここでいう演出とは単に表面的な演技という意味ではなく、心の奥底にある真撃(しんし)な気持ちを率直に表現することである。

もちろん、そのためには、それぞれが利己的な欲を捨てるなり、できるだけ抑えるなりしたうえで「人類愛」を育んでいく努力が、生き方の根底になくてはならない。

気くばりは人の気持ちに対する配慮である。自分が何かを言ったりしたりするときは、それを相手がどのように受け取るかを想像してからにする。多少は自分の感情を抑えたうえで、相手の気分がいいようにとか、相手の心を和らげられるようにとかする。

そうすれば、お互いの心が結びつくので、そこに和やかな空気が流れる。そのような雰囲気が醸成されれば、皆の心も仕事に向かって集中していくのが容易になるのだ。

 

ノーと言うときほど、気くばりが試される

人が何かを頼んでくるときは、イエスという返事を求めているのが普通だ。そこでノーと言ったら相手ががっかりするだろうと考えるので、できるだけ色よい返事をしようとする。相手に好意を抱いていたら、それが人情である。人との和を重んじる日本人の場合は、特にその性向が顕著であるといわれている。

人間関係をよくしようとするときは、このように相手の意向に沿おうとする心掛けはプラスの効果をもたらす。だが、気が進まなかったり遂行する自信がなかったりするにもかかわらず、無理をして引き受けたのでは、禍根を残す。所期の結果を出すことができなかったときは、相手の信頼を裏切ることになり、逆に人間関係にひびが入ってしまうからである。

自分の能力や自分が置かれている現状を明確に認識したうえで、確固たる信念を貫く姿勢を確立しておく必要がある。そのうえで、的確な判断をしてイエスかノーかを伝えるのである。

軽々しく引き受けても、何とか相手の言うとおりにしようとして一所懸命に努力するのであれば、まだいい。人間関係にも多少の汚点がつくくらいである。相手としても、誠意の一端を感じとることができるからだ。

特に仕事の場でよくないのは、返事を曖昧な言葉で濁したり、いたずらに先送りしたりすることである。その間に仕事の流れが止まってしまう。最近のように変化の激しい時代にあっては、決断の遅れによる機会の逸失は大きな損失や混乱をもたらす。昨今のひ弱な政治家は、その典型的な反面教師としての役割を果たしている。

「時は金なり」である。特にノーと言うのは、早急ないし即刻を旨としなくてはならない。早くわかれば、相手としても、次善の策を講じるとか、代替案を考えるとかの対応が可能であるからだ。

「善処しましょう」とか「考えておきましょう」とか言うのは、実際には何もしないという意味である確率が非常に高いことは、誰でも知っている。だが、自分の期待する度合が大きいときは、ついその言葉を信じたくなるものだ。「溺れる者はわらをも掴む」という場合にも似ている。

断るときは、きっぱりと直ちにというのが原則である。その際には、その理由をできだけ簡潔に言うのが親切だ。くどくどと言い訳がましい理由を並べ立てるのは、つまらない憶測も呼ぶし未練がましくもあって、よくない。あとは、申し訳ないとか残念だとか言うに留めておく。

いずれにしても、断るのは、多かれ少なかれ相手の期待を裏切ることであるから、謝るという気持ちも、これも多かれ少なかれ示して伝える必要がある。相手の気持ちを思いやるのだ。

パーティーや食事などの何か楽しいことに誘われて断らなくてはならないときは、また誇ってくれるように頼むのを忘れてはならない。そのようにして、自分が参加できない残念さを強調しておくのである。にべもなく断ったのでは、まったく関心さえもないものと判断されて、二度と誘ってはもらえなくなる。

未練を残した風情を醸し出すことによって、人間関係の縁が切れないようにしておく。何回か誘ってもらったにもかかわらず、いつも先約があったりどうしても都合が悪かったりして断らざるをえなかった場合は、同じような機会を自分でつくって、相手を誘ってみるということも必要であろう。

お互いの間にあるコミュニケーションの回線が錆びつかないようにする、1つのわかりやすい手立てである。

イエスというのは相手にとって歓迎すべき返事であるから、いいニュースである。したがって、忙しかったりして自分自身で伝えることができなかったら、代理の人にしてもらってもいい。

その代理人も伝えるのに抵抗はない。だが、ノーというのは悪いニュースであるから、誰だって伝えるのを先に延ばしたり、誰か代わりの人に伝えてもらったりしたいと思うのは、人間の自然な感情である。

しかしながら一般的にいって、自分がするのが嫌だからといって、人にさせようとするのは卑怯な人のすることだ。ずるくて卑怯な人は皆に嫌がられ、その人間関係は次第に縮小していく。最後には誰にも相手にしてもらえなくなる運命だ。嫌なことであればあるほど、自分自身でする勇気と良識がなくてはならない。

断るときも、必ず自分自身でする。それもできるだけ相手のところに出向いて行き、断ると同時に頭を下げて謝る。人間の感情は相互的なものであるから、裏革に振る舞えば其撃に振る舞ってもらえる。そのようにして、人間同士の絆が強く結ばれていくのである。

 

【PROFILE】 山崎武也(ビジネスコンサルタント)

1935年、広島生まれ。1959年、東京大学法学部卒業。国際関連業務に携わる一方、著作にも積極的に取り組み、同時に茶道裏千家などの文化面での活動も続ける。

 

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