弘兼憲史×松下正幸 「島耕作」に息づく松下幸之助の教え
2016年06月28日 公開 2023年01月19日 更新
弘兼憲史×松下正幸「志」対談
1983年に連載が開始されて以来、ビジネスマンに絶大な人気を得て、累計4000万部を超える発行部数を誇る人気漫画「島耕作」シリーズ。この漫画には、作者である弘兼憲史氏がかつて勤務した松下電器産業(現パナソニック)での様々な経験が織り込まれている。それが作品にリアリティと奥行きを与えているのだろう。実は社内で顔を合わせたことがあったという二人が、松下幸之助とのエピソードや、当時の社風などについて語り合った。
弘兼憲史(漫画家)
ひろかね・けんし。1947年生まれ。’70年早稲田大学法学部卒。松下電器産業(現パナソニック)に入社、本社販売助成部に勤務。退職後、’74年に漫画家デビュー。『人間交差点』『課長 島耕作』『黄昏流星群』などヒット作を世に送り出す。『弘兼憲史流「新老人」のススメ』(徳間書店)など著書も多数。
松下正幸(パナソニック副会長・PHP研究所会長)
まつした・まさゆき。1945年生まれ。’68年慶應義塾大学経済学部卒。’68年松下電器産業入社後、海外留学。’96年に同社副社長就任。2000年から副会長。関西経済連合会の副会長を務める一方で、サッカーJリーグのガンバ大阪の取締役(非常勤)を務めるなど、文化・教育・スポーツの分野にも貢献する。
「奉仕が先、利益は後」 今も守る幸之助の教え
松下 弘兼先生は、早稲田大学を卒業後、松下電器産業(現パナソニック)に入社され、その時の体験をもとに総合電機メーカー「初芝電器産業」が舞台の「島耕作」シリーズを描かれたわけですが、なぜ松下電器で働こうと思われたのですか。
松下 漫画を描きはじめて、独立できそうな目処が立ったから会社を辞められたのですか。
弘兼 いえ、これが全くの見切り発車でした。作品を一つも描いたことがないのに辞めてしまったのです。会社の仕事をして、帰ってから漫画を描くとなると、残業もありましたから1日に1~2時間しか時間がとれません。計算したら、1作つくるのに1年近くかかってしまう。
ならば、ダメならダメでいいから、思い切ってやってみようと一念発起したわけです。そして25歳で辞めて、30歳までの5年間に1回も自分の作品が印刷物にならなかったら、その時点で漫画の道をあきらめようと決めました。期限付きの夢といいますか、目標を立てたのです。幸い、辞めた次の年にビッグコミック賞に入選し、順調なスタートを切れました。非常にラッキーだったと思います。
松下 何か覚えておられる松下幸之助のエピソードなどはありますか。
弘兼 社用カレンダーをつくった時のことです。だいたいできあがったところで、部長が松下幸之助相談役のところに持っていくんですね。私も後ろからついて行きましたが、当然ながら部屋には入れません。廊下で待っていると、部長が青い顔をして出てきました。「どうしたんですか?」と聞くと、「やり替え!」と一言。幸之助さんの「わし、これあんまり好かんな」という何気ない鶴の一声で、すべてやり直しです。その後は大変でしたが、印象に残っていますね。
松下 当時の上司や同僚で、印象に残っている人はいますか。
弘兼 販売助成部の部長の印象は強かったですね。骨のある怖い方でした。私が叱られた時は、2~3時間、目の前に立たされました。ある時、部長に延々と叱られていた課長が最後、はらはらと涙を流したのを見てびっくりしました。
松下 ひと昔前の人は、怒る時でも実に真剣に怒りました。怒るのもエネルギーがいりますから、そこまで真剣に怒る人が少なくなってきているのではないでしょうか。
弘兼 部長は本当に厳しい方でしたから、みんな、少し遠ざけていました。でも私は、電車で帰る時、たまたま本社の最寄り駅のホームに一人でいらっしゃるのを見かけたので、「お話を聞かせてください」と近づいてみたのです。はじめはギョッとされていましたが、新人の私がいろいろ聞くと、懇切丁寧に教えてくれました。そのうち気に入ってもらえたのか、カバン持ちで大阪ミナミの宗右衛門町の料亭などに連れて行ってもらいました。最初はよく怒られたのですが、最後はわりと目をかけてもらったと思います。
当時45歳ぐらいで本社の部長でしたから、優秀な方だったことは間違いありません。どこが優れているのかを間近で勉強させてもらう一方、周囲にちょっと嫌われてもいたので、なぜ嫌われるのかも、反面教師として学ばせていただいたといえるかもしれません。
松下 幸之助の経営に対する基本的な考え方など、会社でいろいろな機会に聞かれたと思いますが。
弘兼 最初は、朝礼で社歌を歌ったり、松下電器の綱領や信条、七精神を唱和するのが、宗教がかっていて抵抗感がありました。入社したての頃は、小さな声でボソボソ言っていたのですが、3年経ったら大きな声で言うようになりました。唱和する内容に対して、「本当にその通りだ」と思うようになったのです。
なかでも「利益というのは求めるものではなく、社会奉仕をした報酬が結果として利益になる」という教えは、漫画家になってからも守っています。
漫画を描く時に、こういう漫画を描いたら売れると考えるのではなく、自分が描きたいものを、最上の品質で描き上げる。その結果、読者が喜んでくれれば、それが報酬として返ってくる。本が売れて印税が入って自分の利益になる。そういう生き方を今でも実践しています。
※取材・構成 坂田博史
※本記事はマネジメント誌『衆知』2016年7・8月号、「松下正幸の「志」対談」より、その一部を抜粋して掲載したものです。