京女の「かんにん」は、なぜ男を舞い上がらせるのか?
2017年01月27日 公開 2024年12月16日 更新
「かんにん」は男をまいあがらせる
私の職場は、大学の研究所である。いわゆる共同利用機関で、全国からおおぜいの研究者がつどってくる。専任の研究職員に、京都出身者はほとんどいない。海外からきた者もふくめ、他府県の人びとが、大半をしめている。まあ、事務方には地元そだちも、すくなくないのだが。
これから紹介するのは、東京出身の某研究者にまつわるエピソードである。名前などは、公表をひかえさせていただく。
どういう経緯があったのかは、もうおぼえていない。だが、とにかく彼は、ある事務手続きのちょっとしたミスで、当惑させられることになる。事務補助の若い女性が、そのことで彼に釈明する光景を、私はたまたま目撃した。
そう深刻な事態でもなかったせいだろう。彼女の説明にも、どこか親したしげな響があった。そして、京都のお嬢さんでもあったくだんの女性は、こう言いはなったのである。
「センセ、今回のことは、かんにんね」
「かんにん」は、なれなれしすぎるんじゃあないか。横で聞きながら、聞き耳をたてていたわけでもないが、私はそう思った。
おそらく、「かんにん」ですむていどのミスだったのだろう。彼女の物言いを遠慮がなさすぎると感じた私も、口ははさまなかった。「君、もうすこし言葉に気をつけたまえ」、などということは言っていない。他人事だとうけとめ、聞きながしたことをおぼえている。
また、「かんにん」と言われた先生のほうにも、怒っている気配はうかがえなかった。見れば、笑みすらうかべている。私がとやかく言うようなことでは、まったくなかったのである。
私はこの出来事を、だからすぐわすれた。職場で日々くりかえされるあれやこれやのひとつとして、忘却するにいたっている。いつまでも、心にとどめていたわけでは、けっしてない。
だが、その後しばらくして、この光景をいやおうなく想いかえさせられることになる。くだんの先生が主宰をする研究会の場で、私はふたたび「かんにん」を脳裏へよぎらせた。
先生の研究会にも、他県から研究者があつまってくる。東京からやってくる研究仲間も、いなくはない。そういう気がおけない友人たちの前で、先生はうれしそうにこう言っていた。
「このあいださ、京都の娘さんから『かんにん』って言われちゃったんだよ。ほんと、こまっちゃうよね。もう、かえす言葉がなくなったよ。なんてったって、『かんにん』だからね……」
自分は、京都の女性に、「かんにん」とあやまられた。京女に、「かんにん」と言わせた。先生はそれを、東京の友人たちに、自慢していたのである。
彼は、「かんにん」を「ごめん」の同義語だと、単純にはとらえない。いや、そこはわきまえていたのかもしれないが、どこかで妄想をふくらませている。たとえば、こういうふうに。
─お武家様、かんにん、かんにんしとくれやす。
─よいではないか、よいではないか。
─いや、あかん、あかんのどす、かんにん、かんにん……。
京都の女が、自分に「かんにん」と言った。そのことを、どこかセクシュアルな含みとともに、うけとってしまったのではないか。だからこそ、男としてのうぬぼれ気分も、かきたてられたのだろう。東京の友人たちに、ほこらしくつたえたくなったのも、そのせいだと思う。
私は京都の近郊で生まれそだった。だから、「かんにん」という言葉を耳にしても、性的なニュアンスは感じない。「ごめん」の京都訛として、うけとめるだけである。まあ、声の響きしだいでは、甘えをかぎとることもありうるが。
いずれにせよ、先生は京女の「かんにん」で、少々まいあがっていたようである。「かんにん」と言われ、とまどった。そうことごとしく語っている東京出身の先生をながめ、私はあわれに思ったものである。あほなおっさんやなあ、と。
研究者としては、うやまってもいた。そこを見くびるつもりは、さらさらない。
しかし、大人の男としては、どうしてもあなどる気分がわいてくる。
そのいっぽうで、女の語る京都弁を、あらためて見なおした。なるほど、これには力がある。他県の男たちをうきたたせる効果が、彼女らの方言にはひそんでいる、と。そして、男の京都弁が無力であるとかみしめさせられたある出来事へ、想いをはせた。