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消費者の利益を宣伝の本義とした松下幸之助~「ナショナル」を国民の必需品に

川上恒雄(PHP理念経営研究センター主席研究員)

2017年06月16日 公開 2024年12月16日 更新

松下幸之助が「ブランド」に込めた思い

戦後日本の家庭電化による国民生活の向上は、「ナショナル(National)」の商標をつけた松下電器製品の存在抜きには語れない。創業者の松下幸之助は戦前から、「ナショナル」の意味する「国民」の生活が豊かになるよう、広告宣伝などを通じて良品の普及に努めてきたのである。

 

家電製品の代名詞に

小津安二郎の昭和34(1959)年の映画『お早よう』。東京郊外に住む家族たちの日常を描いている。その中で、子供の兄弟が近所の家でテレビを見ている場面が出てくる。テレビが普及し始めた当時においては珍しくない光景だ。親は他人の家でテレビばかり見て勉強しない兄弟を叱るが、兄弟はテレビを買ってくれるまで口をきかないと反抗する。

最終的には父親がテレビを購入するのだが、映画はテレビ本体ではなく、その段ボール箱に焦点を当てる。大きな「N」のマークとともに、太くてくっきりとした「ナショナル テレビ」の文字。松下電器がスポンサーの映画であるとは聞いたことがないので、小津が意図的に映したのだろう。この頃からテレビといえば「ナショナル」だったようだ。

昭和34年は当時の皇太子ご成婚の年である。テレビの普及に弾みがついた。東京オリンピックが開催された昭和39(1964)年までには、大半の家庭にテレビが置かれるようになる。

その間の昭和36(1961)年、松下電器提供の「ズバリ!当てましょう」(フジテレビ系)が始まった。十年以上続いた人気のクイズ番組だ。視聴者は、三木鶏郎の作詞・作曲によるCMソングをいつしか覚えてしまう。

♪明るいナショナル、明るいナショナル、みんなウチじゅう、電気で動く……。

テレビのみならず、自宅の家電製品をすべて「ナショナル」で揃えたという人も多かったことだろう。高度経済成長期を通じて、製造元の松下電器という社名よりも、「ナショナル」という商標・ブランドが家電製品の代名詞となったのである。

 

宣伝は義務である

最初に「ナショナル」の商標を自社製品に冠したのは、昭和二(一九二七)年発売のナショナルランプである。この角型ランプを販売する前、松下幸之助が商品名を考えていたところ、新聞の「インターナショナル」という文字に目が留まった。

「英語を知らない自分は『インターナショナル』の意味がわからないままに、なにかロシアの革命に関する言葉かと考えながら、字引を引いてみると『国際的』というような解釈があり、『ナショナル』だけでは『国民の、全国の』という解釈があった。

そうだ!ナショナルにしよう。字義もよし。名は体をあらわすたとえのごとく、国民の必需品になろうというようなことも考えられて、これに決定した次第であった」

大正14(1925)年に幸之助は「ナショナル」の商標登録出願をし、翌15年に商標権を取得する。以降、社名でなく、「ナショナル」というブランドを前面に打ち出したのは、幸之助の先見の明だったといえよう。

幸之助は製品名にブランドを冠するだけではなく、それを宣伝することにも力を入れた。新聞に「買って安心、使って徳用、ナショナルランプ」という3行広告を出す。わずか三行とはいえ、当時は大きな投資だった。この3行を考案して、デザインを最終決定するまで3日もかけたという。

ナショナルランプと同時期に発売して大ヒットしたスーパーアイロンも、やがてナショナルアイロンとして売り出される。「ナショナル」に対する認知度がますます高まり、昭和10年代に入ると、広告には製品名よりも「ナショナル」のロゴが大きく掲げられることが多くなった。

昭和11(1936)年発行の情報誌『松下電器連盟店経営資料』創刊号に掲載された「商売戦術三十カ条」(幸之助が説いた商売の心得を箇条書きにまとめたもの)の第十五条に「良き品を売ることは善なり。良き品を広告して多く売ることは更に善なり」とある。

戦後になってもその姿勢に変わりはなかった。ジャーナリストの青地晨によると、松下電器の昭和32(1957)年度の広告費が、同社よりも規模の大きな東芝や日立を2割以上上回っており、メーンバンクの住友銀行から売り上げに対する広告費の比率が高すぎると指摘されたことすらあったという(『中央公論』昭和33年7月号)。けれども幸之助は、広告宣伝することは自分たちにとっての“義務”なのだと強調した。

「われわれには、この品物をあなたがお使いになれば、便利で利益になりますということを消費者にお知らせする義務がある。“義務的宣伝”が宣伝の基本、本義であることをはっきり心得ておかなければなりません。売らんがための宣伝は、正しい意味での宣伝とは違います」

「ナショナル」ブランドへの信頼は、このように徹頭徹尾、消費者の側に立って広告することを通じて、確立されていったのである。

 

世界のパナソニックへ

高度経済成長期、ブランドとしての「ナショナル」は日本中に浸透した。次は海外だ。ところが、「ナショナル」が英語であることが障害となった。アメリカやカナダですでに商標登録されていたのだ。そこで、本社所在地が大阪の門真であることから「カドマックス(KADOMAX)」なる新ブランドを打ち出したこともあったそうだが、あまりうまくいかない。

簡単にあきらめる幸之助ではなかった。昭和38(1963)年の講演で次のように語っている。

「3、4年前から輸出にやや力を入れましたが、ただナショナルというマークはアメリカでは使えないんです。はなはだ残念でございますが、ナショナルというマークの権利は、アメリカの人がもっているんです。それで、アメリカにはマツシタという名前、パナソニックという名前で、一昨年から売り出したんです」

それが、ラジオにつけた商標の「パナソニック・バイ・マツシタ(Panasonic by Matsushita)」。性能のよさからアメリカで高い評価を得、輸出が爆発的に伸びた。「パナソニック」の商標はアメリカ向け製品に以前から用いていたが、ラジオの輸出増がきっかけで世界的に知れ渡り、「パナソニック」一単語のみで通用するようになったという。まさに現在のグローバル企業パナソニック発展への足がかりになったといってよいだろう。

※本記事はマネジメント誌「衆知」2017年3・4月号の特集「最強のブランドを育てる」より、その一部を抜粋編集したものです。

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