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信長は秀吉を「サル!」と呼んだりしていない

堀江宏樹(作家)

2017年12月22日 公開 2024年12月16日 更新


 

織田信長(1534−1582)
戦国時代の武将。1560年、今川義元を桶狭間の戦いで破る。73年、将軍足利義昭を追放、室町幕府を滅亡させた。安土城を拠点に全国統一に乗り出すが、家臣の明智光秀から襲撃され、本能寺で自刃した。

 

偉人はそこまで言ってない!

本当は「サル」より「はげねずみ」

織田信長が豊臣秀吉を「サル」呼ばわりしていた歴史的事実は、残念ながら見当たりません。信長が秀吉をあだ名(っぽいもの)で呼んだ記録は「はげねずみ」以外にあまり例がなく、それも秀吉の正室・おねから、秀吉の女性関係についてかなり深刻な悩み相談を受けた時のなぐさめの手紙の中の用例なんですね。

正史では抹消されがちなエピソードではありますが、豊臣秀吉(正確には当時、羽柴秀吉)には南殿という側室(あるいは複数の側室)との間に一男一女を授かり、正室としてのおねの立場があやうくなっていた時期でした。

くわしくは別の拙著をご覧いただくとして、悩めるおねに信長は温かい言葉をかけ、「武家の正室らしく堂々としているように」と励ましました。この手紙の中で、最大の悪役は正妻をおろそかにする秀吉ですから、「はげねずみ」とことさらに酷く呼ばれたのでしょう。

つまり、ふだんから秀吉のあだ名が「はげねずみ」だったわけではなさそうです。秀吉という人は痩せて、忙しなく動き、髪も薄かったというような想像はできますが……。

ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスからは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、中国人のようにヒゲが少なかった」などと、まるで怪物のようにケチョンケチョンにいわれているのが秀吉の外見です。

その彼がサルと広く呼ばれるようになったのは、江戸時代に入ってからのこと。江戸時代の伝記小説『太閤素生記』で秀吉の幼名が「猿」だとされた影響が大きいでしょう。


豊臣秀吉像
 

悪口はいわなかった優しい信長

それではふだん、信長が秀吉をどう呼んでいたかというと普通に「藤吉郎」などではないかと筆者は思います。信長はみなさんが想像する以上に「優しい人」ですから、外見コンプレックスの強い秀吉を煽るような呼び方だけはしなかったはずです。ちなみに明智光秀は「キンカ頭(キンカン頭)」、前田利家は「犬」などと呼ばれていたようです。

このように歴史ドラマなどでは「第六天魔王」呼ばわりされ、恐い男の代表格の信長ですが、実際はユーモラスな一面がありました。そもそも「第六天魔王」自体が、信長の自称です。

1573年に送られたフロイスの手紙の中に出てくるのですが、信長による比叡山延暦寺焼き討ち事件に、武田信玄からクレームが送られてきたそうなのです。武田信玄は熱心な延暦寺、つまり天台宗の門徒でした。その手紙の末尾で信玄は「天台座主沙門信玄」とサインしていました(実際は座主ではないので、フロイスの聞き間違いでしょう)。ところがその手紙への返信として信長は、自分を「第六天魔王信長」と書いて送ったというのです。

第六天魔王とは名前だけは大層ですが、仏教の信仰を邪魔する悪魔という立ち位置の魔物です。これも織田信長流のブラックジョークだったといえるかもしれませんね。

※本記事は、堀江宏樹著『偉人はそこまで言ってない』(PHP文庫)より一部を抜粋編集したものです。

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