仏法の信奉によって中華文明を相対化せよ
それは、普遍性のある仏教という世界宗教のなかに身を置くことによって、中国文明ならびに中華王朝の権威を相対化し、中国と対等な外交関係を確立していく、というものだ。太陽のごとくこの世界をあまねく照らしている普遍的仏法のもとでは、中華王朝と大和朝廷との間、そして中国大陸と日本列島との間には、優劣も上下もない。どちらが「中心」か、どちらが「周辺」かということもない。あるのはただ、同じ仏法の信奉国としての対等な関係のみである。
つまり、仏法を信奉することによって、そして仏教という普遍的宗教の世界に身を置くことによって、日本は隣の中華帝国と対等な立場に立ったのである。
隋王朝とそれに次ぐ唐王朝の誕生で出現した隣の大中華帝国の圧力に対し、日本は一体どうやって自らの独立を保つのか、中国から文明と文化を受け入れながらそれに呑み込まれないために、日本はどういう立ち位置にあるべきなのか、という問題は、推古朝の聖徳太子の時代から大和朝廷にとっての根本的な政治課題となった。これに対し、まずは推古朝の摂政を務める聖徳太子の主導下、「日出づる処の天子」の国書をもって隋王朝に対する「独立宣言」を行なう一方、同じ聖徳太子の主導下で、大和朝廷は国家的プロジェクトとしての仏教の受容と振興策を推し進め、仏法の権威をもって中華皇帝の権威に対抗し、普遍的な価値を持つ仏教の世界に身を置くことによって中華文明を相対化して、それと一定の距離を取るという、まことに高度な文化戦略を展開したのである。
推古朝の聖徳太子の時代から東大寺建立の聖武天皇の時代に至るまで、古代の日本人があれほどの熱意をもって仏教の振興政策を推し進めたことの最大の理由は、まさにここにあったのではないか。
「須弥山」嗜好に託された飛鳥人の思い
実はこの観点から見ると、聖徳太子が最初の仏教振興プロジェクトとして造営した四天王寺が、大和朝廷政治の中心地・飛鳥ではなく、やや離れた難波の地に建てられたことの意味もわかる。
この時代の難波は港であり、朝鮮半島と中国大陸に向かって開かれた日本の玄関口であった。この難波の海を見下ろす上町丘陵に壮麗なる仏教寺院を建立したのは、海の向こうから来た人々に、仏教の国・日本の国家的威容を示すためであったのではないか。大和朝廷の仏教振興政策は、「海の西」の中国を強く意識した対外政策の一環であったに違いない、と思うのである。
それと関連して、この時代の寺院でしばしば行なわれた「須弥山」像の建造にも注目すべきであろう。
「須弥山」とは、印度の古典仏教で考え出された「須弥世界」の中心となる山の名である。
すなわち、須弥世界の中心に須弥山という想像を絶する高山がそびえ立ち、外輪の山々が周囲を七重に取り込んでいる。山々のさらに外側には海が広がっていて、そこに四つの大陸、四大洲を浮かべている。われわれ人間の住む世界とは、この四大洲のなかの閻浮(ジャンブー)洲とされているのである。われわれの住む地は須弥世界の一部であるが、須弥世界全体は須弥山を中心に組み立てられている、という構図である。
飛鳥時代の日本人は、「須弥山」を中心とする世界像を好んで受け入れていたようである。
『日本書紀』によると、推古天皇20年に宮殿の南庭が須弥山の形に築かれたという。さらに斉明天皇3年、飛鳥寺の西に須弥山の像が造られたことも伝えられている。法隆寺の伝世の宝物である「玉虫厨子」の台座の裏面には、須弥山の像が描かれていたことが確認できる。
日本で描かれた「須弥世界」では、海に浮かぶ四大洲のなかで、南洲の中央に天竺(印度)が、その東方に震旦(中国)があって、さらに東方の大海にある中洲の傍らに日本の島々があると考えられていた(石田一良『日本文化史――日本の心と形』東海大学出版会、1989年)。
この「須弥世界」のなかでは、「中華世界」すなわち中国王朝を頂点とする中華文明圏が世界の中心でも何でもないことは自明のことであろう。中国は「震旦」と呼ばれて、もはや「中華」ですらない。「須弥山」こそが世界の中心であり、日本も震旦もその周辺の海に点在する「周辺国」でしかない。「須弥山」からの距離には差があるものの、同じ「周辺国」としては、日本と震旦との間には上下はもとより優劣の関係さえも存在しない。まったく対等なのである。
大和朝廷の心臓部にあたる宮殿や、日本仏教では中心的な役割を担う飛鳥寺、法隆寺に建造された須弥山には、中華世界を相対化することで中国王朝と対等な立場に立とうとする、当時の日本人の思いが込められていたのであろう。
その後、平安時代に入ってからの日本は、仏法という普遍的な世界に身を置くことによって中国と対等のみならず、日本の優越性さえ主張するに至った。飛鳥時代の推古朝以来の仏法の興隆と広がりは、日本を「大唐」と対等のみならず、仏教信仰の純粋さにおいては、中華世界を見下ろすまでの心情的優位へ導いたのである。
※本記事は、石平著『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。