無意識のうちに人生に“コース・ロープ”を引いていないか?
2018年05月24日 公開 2019年04月23日 更新
※本記事は、茂木健一郎著『ありったけの春』(夜間飛行)より一部を抜粋編集したものです。
「海」で泳ぐより「プール」の方が安心という心理
私は、海で泳ぐのが、こわくて仕方がない。
プールと違って、水がどこまでも続いている、あの状況が不安でたまらない。
小学校のときに水泳大会の練習をして、中学では水泳部だったから、泳げないわけではない。二百メートル平泳ぎに出たけれども、とても苦しかったなあ。でも、もちろん完泳した。
その気になれば、ずいぶん遠くまで、長い間泳いでいられるはずだ。だけど、海で泳ぐのは、突き上げるような恐怖がある。それは、肉体的なものというよりは、心理的なものなのだろう。
松山出身のやつが、あるとき、子どもの頃よく海で泳いでいた、と言った。そういう話を聞くと、不安で仕方がない。もし潮に流されたら? 足がつったら? 波を飲んでしまったら? 心臓がばくばくし始めたら? そういうことを想像していると、たまらなくなるのだ。
自分の足の下に、何百メートル、ひょっとすると何千メートルというような水のかたまりがある。そんな中で、自分の小さな肉体が手足を動かして移動している。
そんなことを想像すると、もう、うわあと叫びたくなる。肝が冷えるような衝撃がある。泳ぐということが、ぎこちない抵抗のように感じられてくる。
その点、プールは安心だ。
水に限りがあるし、コース・ロープもある。それだけのことで、水と自分の関係が、変質するような気がする。周囲一メートルの様子は、海もプールもそれほど変わらないような気がする。
しかし、プールでは、泳ぐと、自分を「保護」してくれる枠のようなものが、一緒に移動しているように感じられるのだ。
海で泳ぐ、ということについての恐怖は、生理的なものというよりは心理的なものに根ざしている。こうやって文章をつむいでいても、ありありとその心の腑分けができるような気がするのだが、ここで考えてみたいことは、果たしてそれは他の領域にも及んではいないかということだ。