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生き方

無意識のうちに人生に“コース・ロープ”を引いていないか?

茂木健一郎(脳科学者)

2018年05月24日 公開 2024年12月16日 更新

※本記事は、茂木健一郎著『ありったけの春』(夜間飛行)より一部を抜粋編集したものです。

 

「海」で泳ぐより「プール」の方が安心という心理

私は、海で泳ぐのが、こわくて仕方がない。

プールと違って、水がどこまでも続いている、あの状況が不安でたまらない。

小学校のときに水泳大会の練習をして、中学では水泳部だったから、泳げないわけではない。二百メートル平泳ぎに出たけれども、とても苦しかったなあ。でも、もちろん完泳した。

その気になれば、ずいぶん遠くまで、長い間泳いでいられるはずだ。だけど、海で泳ぐのは、突き上げるような恐怖がある。それは、肉体的なものというよりは、心理的なものなのだろう。

松山出身のやつが、あるとき、子どもの頃よく海で泳いでいた、と言った。そういう話を聞くと、不安で仕方がない。もし潮に流されたら? 足がつったら? 波を飲んでしまったら? 心臓がばくばくし始めたら? そういうことを想像していると、たまらなくなるのだ。

自分の足の下に、何百メートル、ひょっとすると何千メートルというような水のかたまりがある。そんな中で、自分の小さな肉体が手足を動かして移動している。

そんなことを想像すると、もう、うわあと叫びたくなる。肝が冷えるような衝撃がある。泳ぐということが、ぎこちない抵抗のように感じられてくる。

その点、プールは安心だ。

水に限りがあるし、コース・ロープもある。それだけのことで、水と自分の関係が、変質するような気がする。周囲一メートルの様子は、海もプールもそれほど変わらないような気がする。

しかし、プールでは、泳ぐと、自分を「保護」してくれる枠のようなものが、一緒に移動しているように感じられるのだ。

海で泳ぐ、ということについての恐怖は、生理的なものというよりは心理的なものに根ざしている。こうやって文章をつむいでいても、ありありとその心の腑分けができるような気がするのだが、ここで考えてみたいことは、果たしてそれは他の領域にも及んではいないかということだ。

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私たちは無意識に自らの「可能性」をせばめてしまっている

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