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村田清風の革新思想~長州が維新回天の主役になれたほんとうの理由

八幡和郎(作家、評論家、徳島文理大学教授)

2018年09月10日 公開 2024年12月16日 更新


村田清風 三隅山荘(山口県萩市)

※本記事は、八幡和郎著『江戸時代の「不都合すぎる真実」』(PHP文庫)より一部を抜粋編集したものです。
 

吉田松陰の思想は、半世紀前から長州では常識だった?

長州が維新回天の主役となったなかで、吉田松陰の役割は大きいものです。

しかし、松陰が出現したことで、長州が他の藩と違う特別の存在に突然なったというわけではありません。

関ヶ原で敗れた長州藩では、正月に「殿、今年はいかに?」「まだその時期ではあるまい」という儀式を、元就以来の譜代家臣21人が小座敷に集まり繰り返していたと言われますが、ほとんどの藩が徳川の天下が覆ることを考えていないなかで、長州と薩摩はそのときが必ず来ると意識していたのは事実です。

藩政の運営では、防長2国に押し込められたのち、もっとも堅固な豊臣シンパの毛利秀元が藩政を握って統治体制を創り上げました。そして、江戸中期には秀元の血筋である長府藩主家に宗家の家督が移り、安倍晋三首相の国会での演説で取り上げられて話題になった7代藩主重就(在職:1751~82)という名君が出て、「撫育方」という特別会計で投資的な事業を始めて経済を活性化させました。

しかし、この時期の諸政策は萩の御用商人が牛耳っていたこともあり、「防長天保大一揆」が起きて、農民が新興の商人層と結び市民革命の色彩をもつ改革運動が行われました。その事態収容のために、新しく藩主になった毛利敬親は、村田清風を抜擢して改革にあたらせます。

村田は藩校・明倫館を優秀な成績で出た秀才で、江戸藩邸の財政管理担当者として辣腕を振るい、各方面の学者と交流も深めていました。村田は負債の詳細を藩士や領民に広く公開し、協力を求め、増税はするが無駄な統制の自由化を進め、本百姓の農業経営が成り立つ配慮や、新興商人の容認を実現しました。

下関に倉庫群をつくって、大坂の市況を見ながら諸国の米などを出荷することで利潤増加策を図る「越荷方」など、高度な工夫をほどこした経済政策を展開し、藩外からも資金を集められるようにしました。

しかし、この「越荷方」は大坂商人たちの大反発を招きました。しばしば誤解されていますが、江戸時代というのは、経済に関する限りは、大坂一極集中政策をしていました。大坂商人に有利な規制により莫大な利益を与え、それを、大名への融資などに使わせ、体制の維持を図るという仕組みにした。

大坂商人の独占を排除しようとしたら、ひどい目に遭わされました。たとえば、『鳴門秘帖』で有名な蜂須賀重喜は、藍玉の取引を大坂から徳島に移そうとして、あることないことを小説仕立てで怪文書にして撒かれ、藩主の座を追われました。

村田の「越荷方」についても猛烈な抵抗があり、幕府における水野忠邦の退陣による全国的な保守勢力の復権もあり、いったん引退し、のちに再び藩政に参画してからペリー来航の直後に死にました。

村田の改革は、経済だけではありません。教育では藩校・明倫館を拡大し、足軽や庶民層の教育にも力を入れ、一時期、隠遁していた時期には私塾も開きました。

また、村田は「幕府政治の衰乱と西洋列強のアジア進出という状況から、早晩、日本は戦争に巻き込まれる」と予測します。長州一藩をもってしても勝ち抜いて祖国を護持し、国威を海外に宣揚すべしとの信念のもと、兵器や兵制の近代化に取り組み、藩士1万4000人を動員して大軍事演習まで行いました。

「来て見れば 聞くより低し 富士の山 釈迦や孔子も かくやあらん」は村田の遺した歌です。吉田松陰の功績は主として教育者としてのものであり、革新思想そのものは、もともと西国大名として毛利家が持っていた基礎のうえに、すでに2世代も前から村田清風によって育てられていたものだと言ってよいと思います。

長州は「偶然の勝者」ではないということはとても大事な視点で、村田清風らが確立した、しっかりした国際標準に合致した近代的な国家観の存在を無視して、安政の大獄などの報復として行われたテロの応酬といった末梢的な現象だけ語るのは貧しく悲しい発想です。

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