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北畠顕家、驚異の進撃とその限界

海上知明(NPO法人孫子経営塾理事)

2019年05月14日 公開 2024年12月16日 更新


陸奥将軍府が置かれた多賀城址(宮城県多賀城市)

<<NPO法人孫子経営塾理事である海上知明氏が、近著『戦略で読み解く日本合戦史』は、日本史の一次史料にとどまらず、『孫子』やクラウゼヴィッツの『戦争論』など古今東西の戦略論を参照しつつ、日本合戦史を分析している。

同書にて、海上氏は北畠顕家の戦いから合戦における補給と兵站を考察している。ここではその一節を紹介する。>>

※本稿は、海上知明著『戦略で読み解く日本合戦史』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。

偉大な名将・北畠顕家の大遠征

建武2年(1335年)11月19日、「建武の新政」と袂を分かち、東国に戻った足利尊氏に対し、新田義貞は朝敵追討の宣旨を賜る。

新田一統7000騎を中心にして、『太平記』によれば諸国の大名320人約6万7000騎、千葉氏や宇都宮氏など関東の諸豪族も多く加わり、東海道を東進し、東山道からは約1万騎が東進し、北畠顕家の奥羽の軍も足利軍の背後から現れて三方から挟撃する形をとっていた。顕家は鎮守府将軍補任となり、奥羽全体ににらみを利かせていた。

もしこの三軍を統一的に指揮できる司令官があれば、この遠征は分進合撃となって結実した可能性もあるし、少なくともカンネのような「旋回運動」にもなり得うるものであったから、勝利は比較的容易であったかもしれない。

だが護良親王亡きあと、官位的にも経験的にも能力的にも衆目が認める統一司令官は不在であった。したがって、高度な計算を必要とする三道並進の「分進合撃」は不可能であったため、各方面軍はおのおのの準備に合わせてバラバラに行動していた。

顕家が軍勢を整えて奥羽から出てきたのが12月22日、この段階ではすでに「箱根・竹之下合戦」は終わり、全国に出された撤退命令に従って東海道の新田軍は平安京に向かい、それを追って関東をがら空きにしたまま足利軍も上洛の途についていた。顕家は足利側の奥州管領・斯波家長をはじめ佐竹氏・相馬氏等の軍勢を蹴散らして簡単に鎌倉に入った。

関東から補給を行っていたのなら足利軍はこの段階で戦わずに敗北しただろうが、それをしなかったからこそ無茶ともいえる上洛軍を起こすことができたのである。

つまり関東を勢力圏に収めたといっても、それは強固な支配を伴っていたのではなく、関東諸豪族の支持をとり付けていたというレベルにすぎなかったから、関東を、固定された力の供給源にはしなかったのである。

そのために兵糧などの調達は、あくまで遠征地での現地調達になっていた。

しかし直接的に足利軍に打撃を与えることはできなかったにしても、顕家が奥羽に加えて関東までをも支配したらバランス・オブ・パワー上、後醍醐天皇側が相当に有利になったことだけは疑いない。それは項羽と劉邦の争いの中、韓信将軍が魏 、趙、燕、斉を平定した形に似通っていた。

しかし平安京にこだわった後醍醐天皇は全国的視野で眺めることなく、我が身を守るために、ただただ全国の与党を平安京に集結させることしか考えていなかった。そのためにせっかく占領した鎌倉を捨てて顕家は平安京に向かったのである。

顕家が率いていたのは、関東における新田残党を加えて5万人とされている。過大な数字の多い『太平記』において、この数字は比較的、的を射たものかもしれない。

奥州藤原氏が国外に派遣し得る兵力を平清盛は2万人と見ていたが、実際に奥羽の石高は100万石強程度であったから3万前後が動員力となってくる。これに新田軍残党が加わったのである。

しかし、少なめの数字である5万人が実数だとしても、奥羽の土地生産力から見れば過大であった。これは北畠顕家が土地生産力に縛られない民をも動員していたからであろう。

兵農分離が進んだ桃山時代の動員力は、1万石につき250人とされている。これを上回る兵力を集めるためには農兵の比重を高めるか、土地生産力とは別個な民を動員するしかない。

武田信玄や北条氏康、そして長宗我部元親らは農兵比重を上げた。織田信長は兵農分離を進めたが、兵隊の供給源は農村であった。護良親王は、このいずれでもない方策をとった。農業と土地とは無関係な民に目をつけたのである。北畠顕家は護良親王タイプである。

しかし、ここでの問題は土地生産力から逆算された兵力の場合、その軍隊は既存の経済力の範囲内から合理的に打ち出されたものであり、動員も合戦もその範囲内で収まり得るものとなるが、土地生産力と無関係の軍隊は、土地生産力から算出された経済力では養えない規模となってしまうことがあることである。

しかも今回の遠征は遙か奥羽の地を離れてのものである。通常、戦力は距離の2乗に反比例されるとされるが、これは兵数だけの問題ではない。遠征軍の規模を巨大化させると兵糧などの圧迫はさらに激しいものとなってくる。

したがって、奥羽のもつ経済力とは無関係に行わなければならなかったのである。

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通常の倍である1日50kmのスピードで行軍する北畠軍

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