北畠顕家、驚異の進撃とその限界
2019年05月14日 公開 2024年12月16日 更新
現地調達が難しい戦国時代
バート・S・ホールが指摘するように、ヨーロッパにおいて遠征の問題は馬の飼料が現地調達しにくいことであっただろう。
だがヨーロッパと異なる点は、草が豊富であっただけでなく、日本の農業がその時代としては高い生産力を誇っていたことで、代わりに膨大な兵力を養うための兵糧が過大であったのだ。
北畠軍は補給や兵站を考えない遠征を行った。民の支持こそが新政権の礎となることを明言していた顕家が、なにゆえに略奪しながらの遠征を行ったのであろうか。
それは先に述べたような当時の支配構造と経済事情に加えて、率いていた軍隊構成員の性格によるものである。
略奪は、この遠征だけに見られたものではないし、北畠軍特有のものではない。
のちの北畠軍の遠征でも奈良地方で略奪が見られているし、『太平記』の中には、延元3年(1336年)7月に、新田義貞に加担するため大井田氏経、中条入道、鳥山家成、風間信濃守、禰津掃部助、大田瀧口ら越後から出撃してきた2万人の軍勢が加賀の今湊にとどまっているあいだに兵糧調達のための略奪をした内容が書かれているし、『太平記』巻34によれば、足利軍も南河内で略奪を行っているからである。
多くの軍の遠征規模が長大であることから見て略奪による現地調達方式がこの時代の遠征軍の基本であったように思える。遠征軍の後方に存在すべき兵站線が希薄であることは、兵站線を断ち切るという発想そのものが生まれにくかったということも意味している。
これがのちの戦国大名、たとえば織田信長などとの違いでもある。信長の場合には、あくまで美濃国、尾張国、伊勢国という力の根源があり、そこからの資力に応じて遠征をしているから駐屯地での略奪はあまり必要ではない。
これはやはり戦国時代に上洛軍を起こした三好長慶や武田信玄についてもいえることであり、だからこそ遠征距離の制限が大きくなる。『孫子』は現地調達の利点を挙げているが、各地の戦国武将の支配権が強化された戦国時代は、南北朝時代よりも現地調達が難しく、その分、遠征もまた困難になってきたと考えられる。
鎌倉時代から室町時代にかけて、おそらく各地の守護の支配権といっても、さほど強力なものでなかったことが敵地での調達を簡単なものにし、逆に守護に任じられた国を失うことにも抵抗感が少なかったのだろう。
軍隊は流動的なものであり、組織としても戦国時代のような整然としたものではなかった。こうした形の遠征は戦国期でも初期には見られる。直接的な領土拡大につながらないにもかかわらず、敵地深く侵入して打撃を与えるという方法である。
しかし兵站という考えも生まれており、長大な補給線は切断されやすいという危険が強まる。
彼我ともに領域への支配権が強固になったことがその背景にあるのだろう。戦前の日本史家・内藤湖南は、地元の英雄というものが登場したのは「応仁の乱」以降に限定されると述べているが、地元との強固な結び付きは戦国時代以降の現象なのかもしれない。