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信長も才能を認めた嫡男・織田信忠…正統後継者の惜しまれる「結末」

和田裕弘(わだやすひろ:戦国史研究家)

2019年10月02日 公開 2024年12月16日 更新

織田信忠は、父信長から才覚を認められ、十九歳の若さで家督を継承した。大軍の指揮を任され、紀伊雑賀攻めに続き、謀叛した松永久秀の討伐に成功。

さらには先鋒の大将として信濃・甲斐に攻め入り、宿敵武田氏を滅ぼして信長から称賛される。だが凱旋からほどなく、京都で本能寺の変に遭遇。明智光秀の軍勢に包囲され、衆寡敵せず自害した。

もし信忠が生きながらえていたなら、歴史は変わっていたかもしれない…と歴史を語る上での禁じ手である「if」を掻き立てられてしまう。

戦国史研究家で、織豊期研究会会員でもある和田裕弘氏が発表した『織田信忠ーー天下人の嫡男』では、将来を嘱望されながらも、悲運に斃れた26年の生涯を描いている。ここではその一節を紹介したい。

※本稿は和田裕弘著『織田信忠ー天下人の嫡男』(中公新書)より一部抜粋・編集したものです。

 

織田信忠の振る舞いはの若き日の信長によく似ていた

幕末から明治にかけて編纂された『名将言行録』(戦国武将などの逸話集)という人物列伝があるが、それには信忠についての不名誉な逸話が記載されている。少し長いが、意訳して紹介しよう。

信長が家臣に対し、信忠をどのように思うかと下問したところ、内藤某という家臣は「非常に優秀だとみなの者が申しております」と言上したが、信長はすかさず、具体的に申してみよ、と重ね、内藤某が次のように回答する。

「ご来客などがあった時、『この人には馬、あるいは物具、小袖などを下されるだろう』とみなの者が予想すれば、予想通りの物を下される」と自信を持って説明したが、信長は「そんなことは器用ではない、それこそ不器用である。そんなことでは私の跡を継ぐことはできない」と断じた。

その理由について、「家臣が、刀を下賜されるだろうと予想した時には、小袖を与え、馬を遣わされると思った時には、金銭を与え、この人にはたいした贈り物はしないだろうと予想した時には、金子などたくさんの物を下賜するということこそが、国持ち大将の作法である」と説明し、たとえば合戦に臨んで、「敵を攻める時、加勢が出るというところへは少しも加勢を出さずに敵を疲弊させ、加勢は出てこないだろうというところへ素早く出撃すれば勝利を得ることができる。敵が待ち構えているところへ出撃してどうして勝利を得られようか」と具体例を示す。 

信長は、これらを踏まえ、「総じて器用そうに振る舞っている者は不器用そのものであり、分別があるように装う者は無分別である」と指摘し、「武士は下々の者から予想もできないことをするのが誠の大将である」と結論した。

信忠を引き合いに出している逸話だが、信忠の能力に対する本質を突いた教訓ではなく、真の狙いは、信長が予測不能な行動によって合戦に勝利してきたことを強調するエピソードだろう。ただし、信忠に対する認識の程度が垣間見える逸話ではある。

また、敵方の軍記『高遠記集成』には、天正十年(1582)の武田攻めの前哨戦となった高遠城の攻防で信忠が陣頭指揮した活躍などに触れ、「信忠は将としての勇は拙いが、兵としての勇は優れている」とし、一兵卒としては果敢に攻めかかる勇気があるものの、将帥としての器ではない、という逸話を紹介している。

たしかに大将としての振る舞いではないのかもしれないが、二代目が安全な本陣で難攻不落の高遠城への猛攻を家臣に命じても、歴戦の兵卒が命がけで攻めかかったかどうかはわからない。自らの力量を示す必要もあったのではなかろうか。また、のちに触れるが、信忠はどうしてもこの戦いで武功を挙げたい理由があった。こうした要因が重なり、武勇を示したのだろう。

翻って考えてみると、若き日の信長にそっくりである。信長が実弟勘十郎(信勝)と雌雄を決した稲生原の戦いや、桶狭間の戦いにおける信長の陣頭指揮と軌を一にするものである。

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織田信長の正統な後継者

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