織田信長の正統な後継者
日本の歴史上、最も人気のある人物の一人が織田信長。その評価は別としても、日本史上、稀有の人物として周知されている。「天下人信長」は知っていても、その父親や息子の名前まで知っている人は少ないだろう。
信忠は、信長も認める正統な後継者である。元亀三年(1572)に初陣を果たし、その後も後継者として着実に実績を積み上げていった。
この翌年には将軍足利義昭が信長に「叛旗」を翻したため、信長はこの制圧のために上洛し、信忠も同行した。おそらくこの時が初めての上洛だったと思われる。信忠が上洛していることを記している史料がある。
吉田神社の神主吉田兼和(のちに兼見と改名)は抜け目なく、この機会に信忠に御礼の挨拶に赴き、その時のことを日記『兼見卿記』に残している。信忠のことは、「信長嫡男」と記しており、嫡男と認識していたことがわかる。
この時、上洛した信長軍は京都上京を焼き払うが、下京は焼き討ちを免れるために、織田軍に献金し、その時の帳簿(『下京中出入之帳』)にも信忠のことが書き込まれている。
「御きミやう様」(ご奇妙様=信忠の幼名)、と「様」の敬称付で記している。同史料では、信長の家臣は基本的には「殿」付であり、信忠の方が格上の「様」付で敬意を払われている。献金の金額も信長に次いで信忠が二番目であり、後継者として別格扱いである。これが京都での「デビュー」となった。
翌天正二年(1574)の長島一向一揆攻めにも出陣し、一門衆を麾下に一軍を率いて参戦した。織田軍は三方面から侵攻し、信忠は東方面の大将として父信長とは別働軍で進軍した。叔父の織田信包や同半左衛門(秀成)、および老臣衆が補佐した。この時には、のちの信忠軍団を形成する武将が付けられた。
残念ながら、戦場での活躍は伝わらず、一揆軍殲滅の見込みが立ったことで決着を待たずに帰陣したようである。最終的には、信長の騙し討ちに激怒した一揆衆に信長の本陣が強襲され、一門衆多数が討死したが、信忠は居合わせず、九死に一生を得たものと思われる。
天正三年五月の長篠の戦いにも従軍し、信長とは別に本陣を置くなど、後継者としての地位を際立たせた。前述のように長島攻めの最終段階で信長本陣が急襲され、一門衆多数が討死した反省に立ち、本陣を別々にしたのかもしれない。