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信長の正統後継者・織田信忠の“奇妙”な幼名

和田裕弘(わだやすひろ:戦国史研究家)

2019年10月04日 公開 2022年06月15日 更新

 

柴田勝家が甲を、下方貞清が冑を着せる

元亀三年(1572)七月十九日、信忠は、信長の後見のもと初陣を飾るため浅井攻めに出陣する。この日は赤坂に陣取り、翌二十日、横山城に着陣する。二十一日には、いよいよ小谷城攻めに取り掛かる。

信長は、信忠の初陣を飾らせるため、佐久間信盛、柴田勝家の両大将に加え、丹羽長秀、木下(羽柴)秀吉、蜂屋頼隆、美濃三人衆ら錚々たる重臣を動員し、浅井方の阿閉貞征の山本山城を攻撃し、足軽合戦で五十人余を討ち取る戦果を挙げた。

二十三日には越前との国境の余呉、木之本に侵攻し、地蔵坊(浄信寺)をはじめ堂塔伽藍、名所旧跡一宇も残らず焼き払った。

さらに海津浦、塩津浦、竹生島なども焼き払った。追い詰められた浅井氏は朝倉氏に対し、「長島の一揆が蜂起したため織田軍は窮地に陥っており、いま援軍に駆け付ければ織田軍を撃破できる」と虚偽の使者を立てて朝倉義景の援軍を引き出すことに成功した。

義景は、15000人を率いて小谷城の救援に赴いたが、いざ到着してみると、危機的な状況であることを知り、高山に築いた大嶽砦に籠城。信長は連日のように大嶽砦に攻撃を仕掛け朝倉軍を疲弊させていった。

八月八日には、朝倉方の前波吉継父子、翌日には富田弥六(長繁)らが内通してきた。織田軍は鉄壁の包囲陣を構築し、信長・信忠父子は九月十六日、横山城に帰陣した。

この間、信長は朝倉方に使者を派遣し、「せっかく援軍に来たのだから、日取りを決めて決戦しよう」と持ち掛けたが、優柔不断な義景は応じなかった。信忠の初陣は二か月にわたる長期戦となった。

初陣の儀式そのものは、小谷近辺を放火して帰陣したことだろう。尾張藩士の系譜『士林泝洄』の下方氏の系譜には、この作戦は信長の初陣の時の吉例に倣ったのではないか、と推測している。放火して帰陣するというのが恒例という意味だろうか。

柴田勝家が甲を着せ、下方貞清が冑を着せたという。貞清は信忠の祖父の代から仕え、今川氏との小豆坂の戦いで勇名を馳せた小豆坂七本鑓の一人であり、永禄の初めころには「最初鑓六度」(一番鑓を六回果たした)と謳われた勇者でもあった。

当時信長と友好関係だった上杉謙信の十月十八日付(十月十一日付の写しもある)河田伯耆守(重親)宛書状写し(『古案』)によると、初陣に同陣した信長は、要害を堅固にして信忠を残し、いったん、岐阜城に帰陣したようである。有力家臣が後見しており、信忠は大過なく初陣を果たした。

なお、信忠は初陣直前の元亀三年(1572)七月十一日、新影流の祖、上泉信綱の直弟子で甥ともいわれる疋田豊五郎の門人になったという。

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幼名時に斯波氏から秘蔵品を贈られた信忠

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