「人前で話すと焦ってしまう人」が恐怖しているものの正体
2020年05月03日 公開 2023年07月12日 更新
過去20年にわたって、あがり症に悩まされてきた佐藤健陽さんは、現在あがり症の専門家として、自身の過去の体験を基に「あがり症を克服する方法」を説いている。
スピーチや大人数での会議での発言は誰しも緊張するが、過度な緊張に悩まされているのであれば「あがり症」を疑うべきだろう。
本稿では佐藤健陽さんの著書『人前であがるのはしょうがない』より、あがり症に苦しんだある人が、あるきっかけで克服したことを伝えた一節を紹介する。
※本稿は、佐藤健陽著『人前であがるのはしょうがない ~あがり症を克服した僕が伝えたい魔法のコトバ~ 』(impress QuickBooks)より一部抜粋・編集したものです。
あがるのは「他人の価値観で生きているから」
ちょっとつき離した言い方になりますが、あがり症は、「消極的な自己中心」です。
「消極的な自己中心」というのは、人に害は及ぼしませんが、心のベクトルが自分に向いているということです。
自分にベクトルが向いていると、自分の心の中で色々と考えて悩みます。他人に直接確かめもしないのに、「自分は人の目にどう映ったのだろうか」「どう思われただろうか」と、際限なくグルグルと考えます。
しかし、私自身が昔あがり症の当事者だったのでよくわかるのですが、それはすべて自分の作り出した妄想で、憶測の範疇を越えないのです。
また、心のベクトルが自分に向く原因の一つに、「自分ではなく他人の価値観で生きている」ということがあります。
他人の評価を気にするあまり、他人から自分がどう思われているのか気になるのです。自分の中から生まれた価値観で主体的に生きていれば、人からどう思われようと自分を信じて行動できます。
でも、他人の価値観で生きている人は、他人から評価されることで自分の存在価値を確認します。それゆえ、他人の目がとても気になるのです。
しかし、心のベクトルが外に向いたとき、あがり症は乗り越えられます。それは、自分がどう感じるかよりも、相手にとってどうなのか、どうなってほしいのかという意味を見出せたときです。
ベクトルが自分に向いているときは、「あがったらどうしよう」とあがることばかり恐れているので、その状況に意味を見出せません。
しかし、その状況に意味を見出せたとき、あがることへの恐怖よりも別の価値の方が、優先順位が上になり、不安や恐怖に勝るのです。
ヴィクトール・E・フランクルの名著『夜と霧』は、強制収容所に収容されてもなお、人間性や希望を失わなかった人たちのことを記した体験記です。
その中の、「生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう」という名言は、あまりにも有名です。
人間性や希望を失わなかった人たちは、苦難の中でも人間としての尊厳や人への思いやりなど、生きる意味を見出していました。意味があるからこそ、全くの絶望にはつながらなかったのです。逆に言えば、人生の絶望とは、生きる意味を見出せないことです。