人は成長の過程で、問題をどう乗り越えるかを考え、人生で何度も経験する葛藤と戦ううちに自分の長所、固有の素晴らしさに気づく。
しかし、その葛藤を避けて解決しようとせず、それゆえに人間関係のあらゆる場面で問題を起こす「メンヘラ」と呼ばれる人びとがいる。
早稲田大学名誉教授の加藤諦三氏の新刊『メンヘラの精神構造』より、メンヘラの心理はいかなるものか、その精神構造に焦点を当て、解説した一節を紹介する。
※本稿は加藤諦三著『メンヘラの精神構造』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。
ナルシシストは、何者にもなれない
ナルシシズムを自己愛と訳したところに大きな間違いがあった。あくまでも他者の中にある自己イメージを愛することであり、「現実の自分」を愛することではない。つまり「自己偽愛」と訳すのが正しかった。
有名なギリシャ神話に出てくるナルシスは自分を愛していたのではない。それはナルシスが水に映っている自分をうっとり見つめているということである。そこで自己陶酔と訳したが、「現実の自分」にうっとりとして見とれているというのではない。
これも自己陶酔と訳したのが誤解のもとである。疑似陶酔である。あるいは偽自己陶酔である。ナルシスの水に当たるのが、私たちの場合には他人である。つまり、自分が他人の心にどのように映っているか、他人にどう思われているか、それにしか関心がない。
生産的に自分を愛することではない。マズローの言葉を使えば、ここで重心が他人に移ってしまう。自分が自分をコントロールしているのではない。そこでストレスに弱い人間にもなる。
もし現実の自分に関心があれば、今、自分のできることをしようと思う。「現実の自分」の潜在的可能性を活かそうと考える。そう考えて行動する。「現実の自分」に関心があるからこそ自己実現が可能になる。
ナルシシストには現実の自分の能力を活かすための行動がない。自己実現する心の姿勢がない。その結果、自己陶酔しているようであるが、自分が何者であるかが分からなくなる。こうしてナルシシストはアイデンティティーの確立ができない。
人間関係で悩むのは、相手を見ていないから
ナルシシストは自分のイメージに関心があるが、現実の自分には関心がない。人の話をしていても悪口以外はつまらない。しかし「私についての話題」はおもしろい。
ナルシシストは自分で自分を「ステキ!」と語ることで生きている。本来は他人に「こうしてほしい」と思うことを、自分で自分にしている。他人に言ってもらうよりも自分で言っているほうが簡単である。
小さい頃から愛された体験がないのである。ナルシシストは、人間として一番大切なものを忘れて、生きて来てしまった。また、よくナルシシズムの説明として「自分にしか関心がない」と説明されているが、この説明も注意して理解する必要がある。
ナルシシストは現実の自分には関心がない。ナルシシストが関心を持つのは現実の自分ではなく、自分の影である。彼らはギリシャ神話に出てくるナルシスのように、水に映っている自分に関心がある。
このナルシスの水に当たるのが、現代のナルシシストにとっては他人である。他人の心に映っている自分に関心があるだけである。現実の自分に関心があるわけではない。
つまりナルシシストは他人が自分をどう思っているかにしか関心がない。現代人はナルシシストだという。ナルシシストは子どもたちの可愛い顔には感動しないが、鏡に映る自分の姿にはうっとりとする。
飽きることなく自分の話をするが、他人の話はすぐに飽きる。人にも犬にも料理にも、もちろん数学にも音楽にも外界には一切関心がない。ただ関心は自分のイメージだけ。そのエネルギーはすさまじい。
日常生活はだらしがないのに、延々と自分の話をする。部屋をきれいにする、手をかけて食事の用意をするなど日常生活を整えることにはまったくエネルギーがない。
日常生活を整えることはナルシシストのエネルギーではないからである。ナルシシストは努力が嫌いである。ただ鏡を見ていてなにもしていない。
なんで動かないのか?それは人と心が触れていないから生産的なエネルギーが出ないのである。現実の自分に関心があれば、その人のエネルギーは自己実現に向かう。自分のできることをしようとする。
自分の潜在的な可能性をいかに実現するかに目が向いていく。幸せになる人はいつまでも鏡を見ていない。水に映った自分の姿に見とれていない。
ナルシシストは自分が満たされていないから鏡を見て、「私って、きれいだわー」と見とれるのである。当然、目の前の相手を見ていないので、人との間に友好な関係を築くことは難しいのである。