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伊勢丹「絶体絶命からのV字回復」へ導いた“新宿の秘めた実力”

杉浦泰(社史研究家)

2020年09月02日 公開


イラスト:栗生ゑゐこ

東京の新宿三丁目という日本有数の繁華街に店舗を構える百貨店の雄「伊勢丹」。百貨店のような「何でも扱う」という業態が「たそがれの時代」を迎える中で、伊勢丹の新宿本店だけは現在でも強い集客力を維持している。しかし実はかつて、経営危機を迎えたことがあったという。

突然降りかかった天災とそれに伴う人々の行動変容、そして長年続くブランドの確立――そこから我々は現在にも通じるヒントを見ることができる。

※本稿は、『20社のV字回復でわかる「危機の乗り越え方」図鑑』(日経BP)の内容を抜粋・編集したものです。

 

迅速な震災復興がまさか、経営危機の引き金に

伊勢丹の歴史は、1886年(明治時代中期)に初代・小菅丹治氏が東京の神田旅籠町に「伊勢屋丹治呉服店」を創業したことに始まります。当時の東京は「水運の街」であり、伊勢丹は神田という一大繁華街で順調に商売を続けていました。

そして1923年に関東大震災が起こると、伊勢丹も例外なく焼失の憂き目にあいました。しかし伊勢丹の震災からの復興は迅速でした。震災からわずか1年後には、焼失という被害に教訓を得たコンクリート造りの店舗で、営業を再開することとなったのです。

こうして伊勢丹は、関東大震災という未曽有の危機を乗り切った……かのように見えました。ですが、現実は予想外の方向に動きます。再建した神田の店舗への客足が、震災以前と比べて明らかに鈍っていたのです。

関東大震災以降は、東京に暮らす人々は「郊外への移住」を進めたために、従来の繁華街であった神田という土地の集客力が低下していたのです。震災前の繁華街の中でも、神田の凋落は特に著しいものでした。

それは、同じく震災前の繁華街である浅草には映画という娯楽があったのに対し、神田にはこれといった娯楽もなかったからです。この神田の凋落ぶりは、1925年には258店存在した呉服商が、1929年には148店、1932年には102店へと、急速に姿を消していったことからもうかがえます。

震災後、わずか10年にも満たない間に、半数以上の呉服商が姿を消してしまうという非常事態でした。このような「人の流れの変化」によって、神田でいち早く頑丈な店舗を建設し、営業を再開した伊勢丹は、かえって、経営危機に陥ることとなりました。

 

これから栄える「場所」に社運をかける

せっかく新店舗をこしらえたのだからとか、父祖の地を捨て去るのも惜しいとか、店内にもむろんいろいろな意見が出た。けれども、私はこの際商売が生きるか死ぬかの瀬戸ぎわで、父祖伝来の地もハチのアタマもあったものか。とにかく、一刻も早くすみやかにこの地を捨てて、しかるべきショッピングセンターに進出しなければならぬと決心のほぞをかためた。地の利をかるくみたミスは、どうしても、この大英断で救う他に道はなかったのである。(『伊勢丹百年史』より)

――さて、短期的な「復興」を焦り、「震災後の人々の移動」という構造変化を見落として経営危機に陥ってしまった伊勢丹を再建したのが、創業家の2代目小菅丹治氏です。

本項の冒頭の発言は、創業の地・神田を捨てて新しい土地で再起を図る際、小菅氏が吐露した心情です。「地の利をかるくみたミス」という言葉からも、小菅氏が立地選定の間違いを大きく後悔したことがうかがえます。

こうして小菅氏が選定した新しい土地が、新宿でした。新宿に決めるにあたっては、東京の繁華街の交通量を調査し、判断材料にしたといいます。

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求める勝機に対して、リスクは釣り合っているか

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