伊勢丹「絶体絶命からのV字回復」へ導いた“新宿の秘めた実力”
2020年09月02日 公開 2024年12月16日 更新
求める勝機に対して、リスクは釣り合っているか
しかし、震災後、コンクリートで神田に新店舗を開業し、経営難に陥っていた伊勢丹は、資金調達に苦しみます。小菅氏は生命保険会社や財界の有力者に対して出資を懇願しますが、芳しくなかったといいます。
ようやく見つけた出資者も「拝むようにお願い」をして引き受けてもらったというのが現実でした。それほどに、当時の伊勢丹の信用力は乏しく、また、新宿の発展は懐疑的に思われていたのです。
1931年、当時、新宿三丁目にあった路面電車の車庫の敷地の一部が東京市から売り出された際に、小菅氏は競争入札にあたって、自分の息子に、「もしこれに失敗したら、おまえは小僧にいかなければならない。いまから覚悟していてくれ……」と言って聞かせたといいます。
小菅氏は、持ち得るほぼすべての資産を投じて入札に挑みました。こうして得たのが、今現在、伊勢丹が店舗を構える土地です。
そして1933年、伊勢丹は売り場面積1万8470㎡の本店を新宿三丁目に開業し、新天地である新宿での再起を図りました。新宿の老舗百貨店・伊勢丹には、このようなリスクをとった決断の歴史があったのです。
土地の成長が、事業の成功を後押しする
小菅氏の読み通り、新宿という土地は郊外の発展とともに、人が集まる繁華街として発展を続けていきます。関東大震災から約半世紀を経た1972年には、国税庁が実施する地価の評価額で、新宿が銀座を抜くという快挙も成し遂げました。
当時の「読売新聞」は、「日本一高い土地は、東京・銀座というのが常識だったが、こんどの調査で初めて、新宿がトップにおどり出た」と報道しています。東京の人々の西側への移住によって、繁華街の覇権が交替した瞬間でした。その「街の集客力」に後押しされて、新宿進出後の伊勢丹も、順調に業容を拡大していきました。
店舗の増床にも積極的で、新宿進出直後の1935年に隣接する百貨店「ほてい屋」を買収することで増床を果たしたほか、1950年代には追加で売り出された路面電車の車庫跡地を買収することで、伊勢丹の本店は新宿三丁目に広大な土地を確保しました。
こうして、新宿という人の集まる土地で、巨大店舗を構える伊勢丹は、百貨店業界における急成長企業となり、1970年代には百貨店業界における屈指の高収益企業、「優良会社」として知られるようになったのです。新宿に集中投資する伊勢丹は「"1店"豪華主義」として注目を浴びます。
1990年代以降の百貨店業界は、専門店の台頭によって苦境に陥り、伊勢丹も2007年に三越との経営統合を決めるなど、業界には暗い影が差し込みました。
しかしその後も伊勢丹の新宿本店の強さは健在で、2014年時点での売上高は約2600億円、営業利益推定約200億円を計上しています。たそがれの百貨店業界を牽引する存在として、今なおその地位を保っているのです。