「教えたつもり」の”自己満足上司”が社内で引き起こす悲劇
2020年11月13日 公開 2024年12月16日 更新
「一生懸命工夫して教えているのに、部下がなかなか育たない…」
「丁寧に指導しているのに、仕事をいっこうに覚えてくれない…」
「結局、教えられる側にやる気がなければどうにもならない」
そうした声に対し、「教えたのにできない、のは100%教える人の責任」だと語るのは、教育工学や教育心理学の専門家であり「“教えること”を教えるプロフェッショナル」として多数の著作を上梓している、早稲田大学人間科学学術院教授の向後千春氏。
同氏によれば、やる気を起こさせるのも「教える人の責任」であり、教えられる側がやる気にならないのは「教える人の技術不足」なのだという。
本稿では、向後氏の著作『世界一わかりやすい 教える技術』より、そもそも何をもって「教えた」といえるのか、教える側が誤解しがちなポイントについて書かれた一節を紹介する。
※本稿は向後千春著『世界一わかりやすい 教える技術』(技術評論社刊)より一部抜粋・編集したものです。
「教えたつもり」は自己満足
よく「教えたつもり」になっている人がいます。教科書通りのことをしゃべって、それで満足している人のことです。しかし、それでは「教えたこと」にはなりません。
そもそも、マニュアルの通りに教えるのであれば、教える人は必要ありません。教える相手に教科書やマニュアルを丁寧に読んでもらえば、それで事足りてしまうからです。
では、教科書やマニュアルを読むだけでは、なぜ不十分なのでしょうか?
それは、相手のレベルや理解度などに合わせて、教え方や教える内容を変える必要があるからです。教えるためには常に相手がいるわけですから、その相手に合わせて教え方や教える内容を変えなくてはなりません。
そこに教える側の醍醐味もあるのです。しかし、実際はというと、教える人は相手に合わせることよりも、自分の教えたいことを一方的に伝えるような教え方をすることが多いのです。
教える人は「教えたつもり」になっていますが、これでは、教えられる人は自分の学びたいことが学べず、よく理解できないまま時間を費やしてしまうだけでしょう。
他にも、よくありがちな場面として、「これは前に教えたはずだ。何回言えばわかるんだ?」とつい言ってしまうことがあります。上司であれば部下に、先生であれば生徒に、親であれば子に、教えたことを理解してくれていないことに対して、相手を責める発言をしてしまいがち。
しかし、相手ができるようになっていなければ、教えた人は「教えたつもり」になっているだけです。ですから、正確には「これは前に教えたつもりだったけれど、学んでいなかったのですね」と言わなければなりません。
そして、自分が「教えたつもり」だったことを反省しなければ、永遠に教え方上手にはなれません。厳しいようですが、すべては、教えられる側が理解できたかどうかにかかっているのです。
「教えた」の定義
では、いったいどういう状況であれば、「教えたつもり」ではなく「教えた」と言えるのでしょうか?
それには、相手を見る必要があります。教えた結果、相手が今までできなかったことができるようになっていたら、「教えた」と言っていいでしょう。教える人が、熱意を持っていようがいまいが、丁寧だろうが荒っぽいものであろうが関係ありません。
相手が「どれだけできるようになったか」だけが重要なのです。これを、ちょっと難しい用語で「学習者検証の原則」と呼びます。相手にきちんと教えられたかどうかを検証するためには学習者を見なさい、という意味です。
教えられた人がきちんと理解ができて、できなかったことができるようになっていたら、初めて「教えた!」と宣言していいでしょう。もし、教えられる人ができるようになっていなかったら、「教えたつもり」になっているだけのことです。
教えたつもりの人が熱意を振りかざすのは、本当に迷惑です。しかし、教えたつもりの人は、自分はいいことをしていると考えていますから、そう考えている人に「よくわかりません!」と指摘することは、普通の人にはなかなかできないですよね。
それに、教えてもらうほうは立場が弱いと思いがちなので、どちらかというと、教え方が悪いからできなかったと考えるよりは、「できないのは自分のせいだ」と思いこんでしまう傾向があります。
だからこそ教える立場の人は、「教えたつもり」になっていないかどうか自分の教え方を厳しくチェックし、もし教えられる人ができるようになっていなければ「教える側の責任だ」と考えなければなりません。