シャーマニズムと〈アニミズム〉の違い
さて、わたしがここで〈〉つきで〈アニミズム〉と呼ぶものを正確に把握するには、それをシャーマニズムとの対比で理解するのがいちばんわかりやすいと思います。そうすると、なぜシャーマニズムは大陸的で、〈アニミズム〉が群島的なのか、ということも理解できると思います。
そもそも、古代から東アジアには大きくいって、二つの生命観がありました。
そのひとつはアニミズムであり、もうひとつはシャーマニズムでした。アニミズムとシャーマニズムは往々にして混同されますが、まったく異なる世界観なのです。
わたしのアニミズムについての考え方は、これまでの学説とは異なっています。一般にアニミズムとは、「森羅万象すべてのものに生命(霊的存在)が宿っている」という考えだと思われています。
しかしわたしは逆に、「生命とは普遍的な現象ではない、と考えるのがアニミズムである」と規定するのです。この規定は、従来のアニミズムの定義とは全然異なるものなので、わたしがアニミズムについて語るときには、かならず〈〉をつけて〈アニミズム〉と表記しているのです。
〈アニミズム〉に対抗する思想が「一神教」や「シャーマニズム」や「汎霊論」です。
「汎霊論」というのはわたしがつくった言葉なのですが、世界や宇宙はひとつの「霊」や「スピリット」などで満たされている、という世界観のことをいいます。「汎神論」を、もうすこし広げた概念です。
一神教も汎霊論もシャーマニズムも「生命は普遍的な現象である」と定義するという点で、同じ生命観のグループにはいっています。
日本的〈アニミズム〉は非常に人工的
では〈アニミズム〉とはどういうものなのでしょうか。このものが「生きている」のか「生きていない」のかは一概にはわからない、つまり「普遍的な定義」によって生命を規定することはできない、だから共同体のみんなの感性で決めていきましょう、というのが〈アニミズム〉の世界観であるとわたしは考えているのです。
少しわかりにくいかもしれませんが、日本の伝統を考えてみると、理解できるかもしれません。
日本には〈アニミズム〉の伝統がありました。日本のアニミズム擁護論者は、「アニミズムは森の思想である。日本では森の木を伐らなかった。だから日本人こそが環境親和的な民族だ」という論を立てがちです。
しかしさきほども述べたように、実際には日本人は木をたくさん伐っています。木を伐らないとエコにもならないのです。
日本には伝統的に〈アニミズム〉の世界観があって、「この木は伐っていい」とか「神に属する木だから絶対に伐ってはいけない」ということを共同体単位で決めていました。
すべてが等しく普遍的に「生命」であり、その生命を尊重するのであれば、本来は「この木」と「あの木」を区別してはならず、一本の木も伐ってはいけないはずです。
ところが日本人は木をたくさん伐ったから、日本では森林が管理され、「擬似自然」がよく保存されたのです。伐採の是非を決める普遍的な定義がどこかにあるわけではありません。
共同体を構成するひとびとの共同主観によって、みんなで決めるのです。絶対的な聖典や宗教的権威者がすべてを決めるのではなく、ムラの行事や祭りと同じく、共同体の集まりにおいて車座になってああだこうだといいあいながら決めていきます。
どう決めるのか?「この木はカミである。だから伐ってはならない。あの木はカミではない。だから伐ってよい」。つまり、なんらかの形で〈いのち〉というものが立ち現われてくるときに、それを「カミ」と呼んだりして、崇めるわけです。
そうでない木を崇めないわけではありませんが、あきらかに「カミ」とそうでないもののあいだに区別、あるいは差別を設けています。だから日本的〈アニミズム〉は、「合議」を大切にするのです。
つまり日本的〈アニミズム〉というのは、「自然」全体との一体感というよりは、身近な共同体にとっての〈いのち〉とはなにか、という観点を重要視します。
たとえば里山などはその典型でしょう。その植生は自然にまかせられているのではありません。人間集団の〈アニミズム〉的感性によって管理されているのです。だから、日本的〈アニミズム〉は一見、自然に見えるけれども実は、非常に人工的なのです。
日本的〈アニミズム〉では、権力者が上から演繹的にものごとを決めるわけではありません。共同体の構成員が集まって帰納的に話し合いながら決めます。そのときに年上のひとや物知りは、「先祖代々こうやってきた」という来歴をきちんと知っているから重要なのです。
世界全般に通用する普遍的なルールや思想を知っていても、〈アニミズム〉においてはあまり意味がありません。