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織田信長と武田信玄、本当は仲が良かった?…大河『麒麟がくる』が描く“信長包囲網”

前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)

2020年12月05日 公開 2024年12月16日 更新

《全国にその名を轟かせる「名古屋おもてなし武将隊」。名古屋城に詰め、観光客をもてなす武将と足軽の10人組で、10年以上にわたり活躍を続けている。

そのうちの一人、前田慶次氏は名古屋城検定に検定過去最高点で合格し同検定の名誉顧問を務め、日本城郭検定にも合格するなど歴史への造詣も深い。

前田慶次氏が自身のYouTubeチャンネル「前田慶次5分で戦国時代チャンネル」にてNHK大河ドラマ『麒麟がくる』を徹底解説している。本稿ではその一部を紹介する》

※本稿はYouTubeチャンネル「前田慶次5分で戦国時代チャンネル」にて配信された内容を再構成したものです

 

覚恕(かくじょ)は延暦寺に非ず! 京にいた?

『麒麟がくる』34回「焼討ちの代償」。今回は、光秀が遂に大名に。そして、武田信玄が初登場! 本当の信玄も信長の関係は?と気になる点もござろう。

ドラマの冒頭では延暦寺焼討ちが描かれた。「覚恕は東国へ逃げた」と僧が答えるが、覚恕はこの時は京にいた。

延暦寺焼討ちの当日、在京していて難を逃れている。これは、ドラマとして武田信玄に頼る演出を分かり易くする為であろう。

焼討ちを経て、天台座主(延暦寺の住職)を辞すると表明! 就任してたった1年後のことであった。しかしながら、退いた後も座主として認識されていて、翌年に武田信玄に延暦寺復興を頼る。つまり、ドラマではこの経緯を合算して描いたということじゃ。

武田信玄について、ドラマの放送時間の45分でまとめる難しさを体感致した。覚恕は、このまま甲斐国に留まらず、何と京へ帰京して朝廷の行事に参加する。兄、正親町天皇との関係は?と思うやもしれんが、良好であったと聞く。その後、病で1574年に死去。ドラマでは、信長包囲網を仕掛ける一人で重要な立ち位置で描かれた。

 

明智光秀に領土を与えた織田信長の真意

光秀は、延暦寺焼討ちの働きを認められ志賀郡は2万石を拝領した。指揮を取り、好戦的に戦を展開。織田軍の中で新参者である光秀。この大事な一戦で認めてもらうことが、織田軍で地位を確立する良い機会であったのは間違い御座らん。

志賀郡の近江国にて、後に光秀は坂本城を築城する。坂本城は安土城に次ぐ、豪華絢爛な城郭であったと聞く。天守閣を築いたとも伝えられ、名城であったとルイスフロイスも書き残す。光秀は築城名人でもあった、ドラマでも築城に関わる場面が度々描かれている。

織田信長は光秀に志賀郡の領土を下賜したのは、延暦寺の監視させることに加え、岐阜と京の間の地で関係が悪化した幕府に対して睨みをきかせるためであった。

幕臣でもある光秀に任せる、信長の策でもある。「織田か幕府に付くのか。ハッキリしろ」という後詰とも言え、光秀の心境も苦しかったであろうな。

 

松永久秀に「これ」を言わせる!? 時代考証と脚本の妙

今井宗久の屋敷で、久秀が光秀と幕府と織田の関係について話すシーン。信長の延暦寺焼討ちについて「神仏をあそこまで焼き、滅ぼすほどのずぶとさは儂にはない」と言わせた。

これは戦国好きには、たまらぬ演出であったはずじゃ! 今までの多くのドラマでは、松永久秀は戦国界の梟雄(きょうゆう)、悪者として描かれてきた。

その一つが、東大寺の大仏を焼いた事件である。関わりはあったであろうが、息子が主導したとも言われているので『麒麟がくる』では、松永久秀がそこまでの悪者として描かぬようにしている。

そのため、「え?東大寺の大仏焼いたあんたがそんなこと言うの?」と突っ込んだ視聴者が多いと思うが、これは楽しませる為の演出、誠に見事な脚本を仕上げてくるものじゃ! 時代考証として新たな発見の取り入れを重要視する、小和田哲男殿の成せる業である!数寄者、松永久秀の様々な表情が沢山見られて儂は嬉しいぞ!

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武田信玄と織田信長の深い関係

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