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「海軍の全兵力を使用いたします」で決してしまった“戦艦大和の命運”

半藤一利(作家)

2021年08月11日 公開 2022年06月27日 更新

 

戦艦大和と沈んでいった伊藤長官

昭和35年(1960)冬、草鹿さんはわたくしの取材に答えてくれました。伊藤長官はこういったといいます。

「いったいこの作戦にどういう目的があるのか。また、成功の見通しを連合艦隊はどう考えているのか。成功の算なき無謀としかいえない作戦に、それを承知で7,000の部下を犬死させるわけにはいかない、それが小官の本意である」

草鹿は黙って聞いていましたが、やがてポツリといったといいます。

「これは連合艦隊命令であります。要は大和に一億総特攻のさきがけとなってもらいたいのです」

伊藤はしばし草鹿を睨みつけていましたが、やがて表情をやわらげて、「それならわかった。作戦の成否はどうでもいい、死んでくれ、というのだな。もはや何をかいわんやである。了解した」とうなずき、さらに一言、「もし途中にて非常な損害をうけ、もはや前進不可能という場合には、艦隊は如何にすればいいか、判断は私に任せてもらうがいいか」

草鹿は一言もなく、伊藤の眉宇に期するものがあるのを認めました。そして、NOということもできずにじっと伊藤の顔を見つめていただけであった、と草鹿が語ってくれたことを思いだします。草鹿の報告をうけて、この日の午後に、連合艦隊司令長官豊田副武大将が訓示を発しました。

「海上特攻隊を編成し、壮烈無比の突入作戦を命じたるは、帝国海軍力をこの一戦に結集し、光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚するとともに、その栄光を後昆に伝えんとするに外ならず」

明治建軍いらいの海軍の栄光を、そして見敵必戦の伝統を、歴史のなかに残すために、全滅を覚悟して突入せよ、ということです。4月7日朝、大和と一緒に「自殺行」出撃していくのは軽巡洋艦1隻、駆逐艦8隻の、合わせてわずか10隻。折から桜花爛漫たる春。春霞に包まれた豊後水道を出て太平洋へ。

将兵たちの目には桜がどんなふうに眺められたのでしょうか。2時間余の奮戦ののちに、この日の午後2時すぎ、空からの猛攻をうけ大和は沈みました。軽巡洋艦矢矧と4隻の駆逐艦も前後して海中に没します。

大和艦上の伊藤長官は、もはやこれまでと思ったとき、「駆逐艦に移乗して、沖縄へ突っ込むべきです」という参謀たちの進言をしりぞけて、まだ海上に浮いている駆逐艦長あてに命令を発しました。

「特攻作戦を中止す。内地へ帰投すべし」

これをうけた駆逐艦は4隻のみです。その名を残しておきましょうか。雪風、初霜、冬月、涼月の4隻です。いい名前ですね。

これらは作戦中止命令をうけると同時に、空襲のやんだ合間をぬって、海上に浮いている生存者の救助にかかり、大和の生き残りも、ほかの艦の生き残りも全員を、海上から救いあげました。もし伊藤の中止命令がなければ、そのまま沖縄へ突っ込んでいき、ほんとうに全滅するところでした。

大和の乗組員3,332名のうち戦死は3,056名。他の艦も合計すると、4,037名がこの特攻作戦で戦死しました。これは、8月15日までの飛行機の特攻隊の陸海合計の死者数4,600余人に近い死者数でした。それもたった一日で。何ともいいようがありません。

伊藤は幕僚たちとの別れを終え長官室に入ると、内側から錠をおろしました。上からの命令に反するかのような意志決定によって、生き残った多くの部下たちを救い、みずからは生きようとしなかったのです。

もし伊藤の中止命令がなければ……と思うと、「武士道というは死ぬ事と見付けたり」という言葉がはたして日本人に何をもたらしたか、沈思せざるを得ないのです。

 

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