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邪馬台国は“嘘”をついた? 「親魏倭王」の称号を手にした卑弥呼の狙い

関裕二(歴史作家)

2021年07月29日 公開 2022年06月23日 更新

 

海人たちの暗躍

北部九州は朝鮮半島の鉄を大量に入手することで栄えた。もちろん、鉄の代償となる何かを輸出していただろう。

つまり、この記事にある行程は、邪馬台国と朝鮮半島をつなぐ最大のルートだったはずで、それにもかかわらず、交易の道が「本当に歩けるのか」と訝しむほどであるはずがない。ここに大きな意味が隠されている。

伊都国と奴国は、「海の道」の終着点となる天然の良港を備えていたから栄えたのだ。とすれば、末盧国から伊都国まで魏の使者を歩かさなければならない特別な理由があったと考えねばならない。

答えは簡単だと思う。邪馬台国と伊都国は、ヤマトに通じていた奴国に、魏の使者の到来を悟られてはならなかったのだろう。奴国は海人の国でもあり、奴国の海人たちは伊都国や末盧国の近辺を普段から船に乗って往来していただろう。だから、魏の使者を船に乗せて末盧国から伊都国に連れて来れば、見つかってしまう恐れもあったのだ。

ならばこのあと、ヤマトと邪馬台国の関係はどうなったのだろう。

『日本書紀』は邪馬台国とヤマト建国の歴史を抹殺してしまい、他の話とすり替えているのだが、ここで説明している余裕はない。やはり、詳しくは他の拙著を参照していただきたい。

ただ、勝利を収めたのはヤマトだったこと、邪馬台国にしろヤマト建国にしろ、九州を中心とした海人たちが暗躍し、鍵を握っていたということは間違いない。交易と外交とマツリゴト(祭祀と政治)に、倭の海人たちは、絶大な影響力を行使していたのである。

 

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