伝説の無観客試合...巌流島で猪木とマサ斎藤を撮ったカメラマンが見た「切なさ」の正体
時には実業家として、時には政治家として世間に熱狂と衝撃を与え続けてきた元プロレスラー・アントニオ猪木。その姿を50年間、撮り続けてきたカメラマンがいる。
猪木がマサ斎藤と激闘を繰り広げた、伝説の無観客試合”巌流島の決闘”。あの日、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行った巌流島で、猪木は何と戦っていたのだろうか…。
猪木史に残る出来事を至近距離で目撃してきた番カメラマン・原悦生が、”現場”の光景を振り返る。
※本稿は、原悦生写真&著「猪木」(辰巳出版)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
ルールはただ1つ「お互いのプライド」
1987年10月4日、朝6時に唐戸桟橋から50人の報道陣を乗せた船が出た。立会人の坂口征二や山本小鉄も同じ船に乗り込んだ。
巌流島で、アントニオ猪木とマサ斎藤が戦う。
客はいない。レフェリーもいない。ルールは「お互いのレスラーとしてのプライド」。
テレビ朝日のカメラさえリングに近づくことは許されなかった。リングから離れたところに1本のロープが張られ、取材陣はそこから中に入れない。
青空と白いリングが猪木と斎藤を待つ。だが、昼を過ぎても姿を見せなかった。
「2人とも武蔵になろうとしているのか?」
試合がいつ始まるかわからない状況の中、いつしか島にはのんびりムードが漂っていた。坂口は草地に寝ころんで、秋のさわやかな日差しを浴びている。
若手の船木らはトカゲやバッタを捕まえ、それらを戦わせたりして遊んでいた。
時間は、ゆっくりと過ぎていった。上空を行き来する取材用にチャーターしたヘリコプターのプロペラ音が時々大きく響く。
午後2時半過ぎ、先に渡し船に乗って現れたのは猪木だった。それから遅れること1時間半、午後4時に斎藤が上陸した。
「双方に16時半に試合開始を確認しました」
立会人の山本小鉄がその場にいる取材陣に対して、正式な開始時間を告げた。
しかし、試合はすぐには始まらなかった。我々マスコミが待機していた場所から見て、リングの向こう側に控室代わりの黄色いテントが2つ設置されている。
猪木と斎藤はその中に入ってしまうと、再び時間が経過していくだけだった。実際に試合が始まったのは、午後5時を過ぎてからである。
息を飲む場外戦!まさに”野試合”
遂に猪木と斎藤が白いリングに上がる。静かな立ち上がりだった。
この巌流島決戦より前、いつだったかは思い出せないが、観客の前で猪木と斎藤は関節を取り合って、極めては放す、また極めては放すということをまるで楽しみのように繰り返したことがあった。
それは2人にしかわからない「勝ち負け」がある試合だった。
しかし、ここは無観客の巌流島。意味合いとしては、果たし合いである。勝者と敗者は明確に分かれなくてはいけない。夕刻の太陽がリング上の2人をオレンジ色に照らしていた。
戦いは、やがて草地で組み合う"野試合"になった。そのレスリングの原点のような風景は、私の中で「ヤールギュレシ」呼ばれ、草原の上で試合が行われるトルコのオイルレスリングと重なり合った。
昨夜は夕暮れとともに飛び交っていたコウモリたちもただならない2人の殺気を感じたのか、どこかにひっそりと隠れてしまったようだ。
緑の草と枯れかかった草が汗に吸い寄せられるように、2人の体に張り付いていた。リングまで草地を隔てて20メートルくらい離れていたが、2人の息遣いが聞こえてくる。
そのうちに陽は沈んで、夕闇が迫っていた。海を隔てた街の明かりが見える。用意されていた"かがり火"が焚かれた。刻々と変化する光に、私はロマンを感じた。
火の粉が巌流島の夜空に舞う。かがり火が崩れるように倒れた。大きなまきを手にした猪木は、それで斎藤に殴りかかった。さらに猪木は斎藤を勢いよく燃えていたかがり火にぶつけた。