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生き方

小林一三 時代の十歩先が見えた男

北康利(作家)

2012年03月22日 公開 2022年07月11日 更新

 《 『PHP Business Reviw 松下幸之助塾』2012年3・4月号より 》

[前号までのあらすじ]

上司だった岩下清周(いわしたきよちか)が去ったあと、三井銀行大阪支店次長としてやってきたのはハーバード出のエリート・池田成彬(いけだしげあき)だった。性格的にもそりが合わず、岩下一派と見られた小林一三は出世の見込みもないありさま。鬱々とするなか、晴れて名古屋支店に転勤となるも、今度は遊興に明け暮れ、愛人コウにうつつを抜かしデカダンな生活になっていく。乱れた生活から抜け出るために、身を固めようと決意した一三は、親戚から送られてきた見合い話に乗って、すばやく結婚して新婚旅行を兼ねて再び大阪の地に向かうのだが……。

 

<第4回>波乱の末の結婚、仕事の挫折

 私がどんなに不行儀であったとしても、逃げてゆくといふが如きは男の顔に泥を塗ったもので、意地からにも帰って貰はなくてもよろしい、と言ひがかりのやうな強がりを言ひ、それよりも、見合ひの出来なかった写真のお嬢さんと見合ひをしたいからお願ひする、と東京へ手紙を書いた。
 何といふづうづうしい厚顔しさであったらう。常識から考へてもこの場合、さういふ身勝手の話を、臆面もなく持出すべきでないにも拘らず、私は細君を貰ったといふ美名を維持したかったのである、それは三井銀行員としての体面にこだはってゐたからである。  (小林一三著『自叙伝』)

 

晴れて大阪勤務に

 明治32年(1899年)8月、一三は大阪支店へと転勤になった。名古屋支店長から大阪支店長へと栄転していく平賀敏(ひらがさとし)が、
 「素人の女性と結婚したら大阪に呼んでやる」
 と一三に約束してくれたことについてはすでに述べたが、律儀にも彼はそれを実行に移してくれたのだ。

 東京で結婚式を挙げた一三たちは、高麗橋一丁目の社宅が空くまでの2カ月間という約束で大手通りにある友人の持ち家を借り、新婚旅行代わりに大阪へとやってきた。

 新妻は東京の下町出身で大阪が物珍しい。彼女を喜ばせようと、到着した翌日の夜、今橋西詰の橋の下(現在の中央区今橋一丁目付近)から納涼船に乗った。

 子どもっぽいところのある彼女は、船べりをたたいたり、手で川の水をすくったりして大喜びだ。

 彼はそんな様子を眺めながら、
 (これなら永く愛しあうことができそうだ…)
 そう思った。

 ところが新婚早々、彼は新妻を裏切る行動に出る。愛人のコウをなだめるため、有馬温泉への旅行に連れ出すのだ。よりによって、銀行に結婚届を出した土曜日の午後に出発している。銀行には夏期休暇を申請し、新妻には銀行の同僚たちとかねて約束していた旅行なのだと言い繕って出てきたのだ。

 向かった先は「兵衛(ひょうえ)」。秀吉からその名を拝領したとされる由緒ある老舗旅館だ。奮発すればいいというものではない。そんな高級旅館に泊めてやってもコウの怒りは解けなかった。

 『自叙伝』は小林一三が78歳の時に出版した自伝だが、中でも彼はこのあたりのくだりを驚くほどリアルに描写している。晩年に書かれたものであるにもかかわらず、その記憶力の確かさには驚かされる。

 

 彼女は平素から無口であるが、有馬に居った二日間、何もしゃべらなかった、よくこんなに黙ってばかり居られるものと思った、対話は形式の単語にすぎない、枕をならべて眠る。
 『少し笑ったらばどう』
 『をかしく無いのに笑へませんわ』
 といふのである。
 私もまけぬ気になって黙って居った。突然、唇をもってゆく、横を向くかと思ひの外、ジッとして静かに受ける、眼と眼が会ふと鋭く何かに射られたやうに私の良心は鼓動するのである。そして彼女の眼底から、玉のやうに涙が溢れてくる、頬に伝ふ幾筋かの流を拭きもせず、ジッと私を見守るのである。恨むとか、訴ふるとかいふ、さういふ人間的情熱の表現ではない、神秘の世界に閃く霊感的の尊厳に威圧せられるが如くに、『私がわるかった、わるかった』と、私の声はかすかにふるふのである。
 彼女は冷然として、いとも静かに私の手から離れ、そして黙々として知らざるものの如くに寝入るのである。私は夏の夜の明けやまない暁近くまで輾転反側
(てんてんはんそく)した。

 

  〈神秘の世界に閃く霊感的の尊厳に威圧せられるが如くに〉とは、文章こそ美しいが、やっていることはどうしようもない。

 当初は2泊の予定だった。3日目に有馬を出てコウを家まで送り届け、さて帰ろうとしたところ、手を放してくれない。

 振り払えばいいだけなのだが、それのできない彼は誘われるまま2階に上がりこみ、また有馬と同じような一夜を明かしてしまう。経営者になるまでの彼の人生は、優柔不断な逸話のオンパレードだ。

 残念ながら、今と違って家に電話を入れるというような手軽な連絡方法などない。何も言わずに予定より1泊余計に泊まっては、新妻が不審に思わないはずもなかった。

☆本サイトの記事は、雑誌掲載記事の冒頭部分を抜粋したものです。

 

北康利

(きた・やすとし)

作家

1960年、愛知県生まれ。東京大学法学部卒業後、富士銀行入行。富士証券投資戦略部長、みずほ証券財務開発部長等を歴任。2005年、『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社)で第14回山本七平賞を受賞。’08年より本格的に作家活動に入る。『同行二人 松下幸之助と歩む旅』(PHP研究所)のほか著書多数。


◇掲載誌紹介◇

 PHPビジネスレビュー 松下幸之助塾 

隔月刊 各27日(年間6冊)
年間購読 5,670円

2012年 3・4月号
2012年2月27日発売

【特集「掃除・5Sで経営が変わる!】
・松下幸之助はなぜ掃除を勧めたのか/渡邊祐介
・掃除の効用は、やってみなければ分からない/鍵山秀三郎
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