近所づきあいや家庭に職場と、仕事でもプライベートでも人間関係の悩みは尽きないもの。禅語の「悟無好悪」(さとればこうおなし)は、そうした人間関係を考える上で重要なヒントを与えてくれます。
「人づきあいの中で生じる好き嫌いという感情は、先入観によって生み出されたものがほとんどなのです。色眼鏡をかけたままで人を見てはいけません。色眼鏡をかけた瞬間から、人間関係の幅は一挙に狭くなります」
こう教えを説くのは、曹洞宗徳雄山建功寺住職の枡野俊明さん。そして、日本人ならではの「曖昧さ」にこそ、人づきあいを良好にするヒントが隠れているといいます。これまで、数多の人生相談に乗ってきた僧侶が、人間関係のモヤモヤを軽くするコツを禅語と共に紹介します。
※本稿は、枡野俊明著『「幸福の種」はどこにある? 禅が教える人生の答え』(PHP文庫)から一部抜粋・編集したものです。
宗教心に見られる日本人の”曖昧さ”と“寛容さ”
日本人は無宗教の人が圧倒的に多いといわれています。「あなたが信仰している宗教は何ですか」と聞かれても、「特にありません」とつい答えてしまいます。
これは外国人などにはどうやら理解できないようです。彼らはキリスト教やイスラム教などという確固たる宗教をもっていますので、それが心の拠りどころとなり、生きる上での指標になっている。
彼らにとってみれば信仰心の薄い日本人は、とても曖昧で捉えどころのない民族に思えるでしょう。しかし日本人の心に、宗教心がないかというと、けっしてそうではありません。
1年の初めの儀式としてお参りに行く。神社に行く人もいればお寺に行く人もいる。
一生懸命に手を合わせて家内安全を願っている。ひとつの宗派に属しているわけではないのですが、心の中には仏様や神様にお祈りをするという宗教心が根づいています。
お正月には神社にお参りに行き、お葬式はお寺であげる。クリスマスにはみんなで集まり、家の中には神棚と仏壇が設えられている。なんともごちゃまぜです。
自分自身でさえ何を信じているのかが分かりません。その結果として「私は無宗教です」とつい答えてしまうのでしょう。しかし、これこそが日本人のもっている、素晴らしき「曖昧さ」と「寛容さ」ではないでしょうか。
もともと古来の日本は神道でした。ところが中国から仏教がやって来ました。おそらく欧米であれば、これまでの神道を守るべく、仏教を排除しようと動いたでしょう。ところが日本人はその争いをいかに避けるかを考えました。どうすれば神道と仏教が同時に成り立つか。
そこで考え出されたのが「本地垂迹説」です。これは「本当は仏教の仏が日本では神道の神として現われたもの」という考えです。その代表的な存在が、「権現様」というものです。「権現様」というのは、仏様が神様になった化身であると。なんとも曖昧な存在のようですが、この「権現様」こそが宗教間の争いを避けるものになったのです。
実際に明治に入るまでは、神社とお寺はうまく共存していました。箱根権現にしても、箱根神社と曹洞宗のお寺が共存したものでした。日光にしても東照宮と輪王寺が一緒にあります。中には「神宮寺」などという名前がつけられたお寺がありますが、これもまさに「神様」と「仏様」が共存していたという証拠です。
どんな宗教を信じるか。どんな宗派に属するか。そんなことを決めつけるのではなく、それぞれが心の中に「権現様」をもっていればいい。違う宗教を信じることで争い事を起こすなど、それこそ本末転倒だ。きっと昔から日本人はそう考えたのでしょう。
”曖昧さ”が実は「人間関係」には必要になる
とまあ前置きが長くなってしまいましたが、こうした曖昧な宗教心が、日本人の人づきあいにも影響していると考えられます。
欧米などの人間関係は、とてもはっきりとしています。その人が好きか嫌いか。敵か味方か。自分と合うか合わないか。常に白黒がはっきりとしています。はっきりさせることが互いにとっていいことだと信じているのかもしれません。
「あなたはAさんのことをどう思いますか?」と聞かれる。「私は好きです」「私は嫌いです」と答える。
とても歯切れのよい答えに聞こえますが、答えをはっきりさせることで、その人間関係は決まってしまう。「嫌いです」といわれたら、もうどうしようもありません。もしかしたら縁がある人かもしれないのに、そこで関係は切れてしまいます。
そうではなくて、答えの中に隙間を作っておくことです。「あまり好きではありませんが、でもAさんのいいところはよく知ってます」と答える。あるいは「まだAさんのことはよく知らないので、好きだとか嫌いだとかはいえませんね」と、本当はよく知っていたとしてもそう答える。
なんとなく曖昧で、まるで自分の意見がないかのように思えるでしょうが、こうした曖昧さが人間関係には必要なのだと私は思います。
曖昧という言葉はあまりいい意味で使われません。しかしこの言葉は、裏を返せば変幻自在の心をもつことでもあるのです。
たとえば「私はあの人が嫌いだ」といいきる人。何か酷いことをされて嫌いになったのなら仕方がありませんが、多くの場合はそうではありません。好き嫌いの判断をする時に、実は何らかの先入観をもっていることがとても多いのです。誰かの噂話を聞いて、初めから嫌いだと決めつけている。
「あの人はこういう人だから」という言葉を信じて、自分が判断せずに嫌いになったりする。
つまり人づきあいの中で生じる好き嫌いという感情は、先入観によって生み出されたものがほとんどなのです。色眼鏡をかけたままで人を見てはいけません。色眼鏡をかけた瞬間から、人間関係の幅は一挙に狭くなります。
色眼鏡をはずして、自分自身の目で判断することです。「あの人はこんな悪いところがある」という言葉など鵜呑みにせず、自分自身が判断することです。先入観を捨てて、素直な気持ちでその人と接してみる。
すると周りがいっていた「悪い部分」というのが、実は自分にとっては素晴らしいものだと思うこともあります。人間の性格や人となりというものは、見方によってまるで反対の感じ方をするものです。「これがいい性格」「これが悪い性格」というものなど存在しません。
やさしさというのも然りです。やさしさの表現の仕方はみんな違いますし、受け取る側もそれぞれです。
厳しい言葉をやさしさだと感じる人もいれば、それを意地悪だと感じる人もいます。受け取る側がかけている眼鏡の色によって評価が分かれたりするのです。