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生き方

人は病んで当たり前?「心の変化」に振り回されない仏教の教え

名越康文(精神科医)

2022年09月26日 公開 2024年12月16日 更新

私たちが悩みや不安から解放されないのは、なぜだろうか?

多くの悩める人の人生に真摯に向き合ってきた精神科医・名越康文氏は、「僕らの心が絶え間なく乱れ続け、現実を"ありのまま"に捉えないから」だと指摘します。

これまで精神科医として様々な人の心の問題に向き合ってきた名越氏が、仏教心理学をベースに「心」について解説します。

※本稿は、名越康文著『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』(PHP新書)から一部抜粋・編集したものです。

 

「心」は瞬間ごとに変化し続けている

「心とは何か」を取り扱う学問である「心理学」というと、フロイトが提唱した精神分析や、アメリカで発展した神経科学の考え方を取り入れた心理学などが頭に浮かびます。

しかし、そうしたヨーロッパ、アメリカで発展したいわゆる「西洋心理学」に対して、東洋では仏教が、独自の観点から心理学を発展させてきました。それは「東洋の心理学」と呼ぶことができるぐらい、精緻に理論化されたものです。

現在でも、世界中のさまざまな分野において、仏教が説き開いた心理学的な知見が、大きな影響を与えています。そんな「心理学としての仏教」が僕らの心について教えてくれる、もっとも革命的な知見のひとつが、「心とは瞬間ごとに変化し続ける運動である」というものです。

西洋心理学では、「自我」や「超自我」あるいは「無意識」というように、心というものを静的な「形」や「構造」で説明しようとします。もちろん、そうした構造の中でさまざまな働きがあると考えるのですが、それらはあくまで「心の構造」を前提としたものと捉えられています。

これに対して仏教では、「心」には固定的な実体はなく、一瞬ごとに変化し続ける運動である、と定義します(もちろん仏教にも末那識や阿頼耶識をはじめとする精緻な心の構造の理論が存在しますが、それに先立って「今の活動としての心」に焦点が当てられています)。

これは西洋心理学からすればずいぶんアバンギャルドな心の定義です。しかし僕が臨床で、患者さんの心に触れる中で得てきた実感では、実はこちらのほうが心の実態に近いんです。

幸せの絶頂にいた人が、次の瞬間には憎しみのどん底に落ち込んでしまう。そういう事例を見るたびに、僕は「心は固定的なものではなく、瞬間ごとに変化をし続けている」という仏教心理学の捉え方に説得力を感じるようになりました。

 

「心の揺れ」を感じる3分間

ただ、「心は瞬間ごとに変化し続けている」と言われてもいまひとつピンとこない人のほうが多いでしょう。ここで少しだけ、「心が瞬間ごとに変化し続けている」ということを、自分自身で確認するエクササイズをやってみましょう。

やり方は簡単です。椅子や床に座って背筋を伸ばし、目をつぶり、そのまま動かず3分間、自分の心の中を観察してみる。たったそれだけです。たったそれだけで、僕らの心がいかに瞬間ごとに変化し続けているかを実感することができます。ぜひ1度やってみてください。

......はい、3分経ちました。いかがでしょう?ほとんどの人は、たった3分間の間に頭の中を巡るあまりの情報量に困惑されたはずです。

友人のことや仕事のことを考えていたかと思うと、次の瞬間には「今日のお昼、何食べようかなあ」と考えている。そういうふうに、心の中は瞬間ごとに変化し続けていたのではないかと思います。

「心とは瞬間ごとに変化し続ける運動である」と捉えることによって、仏教心理学は西洋心理学とはまったく異なるアプローチで、心との付き合い方を捉えることができました。

例えば精神分析であれ、近年の神経生理学に基づいた心理学であれ、僕らはある安定した心の状態を取り出してそれを「正常」として捉え、そこから外れた状態を「異常」あるいは「病」として理解しています。この考え方は、現在の精神科医療でも基本です。

ところが仏教は「異常」や「正常」といった捉え方をしません。「瞬間ごとに変化し続けている」以上、病んだ人の心も、健やかな人の心も変化し続けているという点では変わらないと考えるからです(逆に言えば、仏教的な観点からいえば、現世に生きるほとんどすべての人の心は病んでいる、ともいえます)。

どれほど平静に振る舞っているように見える人であっても、悟りを開いた聖人でもない限り、心の中では片時も収まることのない嵐が吹き荒れています。僕らの心は瞬間ごとに「正常」と「異常」の間を常に、瞬間ごとに行ったり来たりしている。

きちんと社会に適応して生きている人であっても、心を病んだ人であっても、その事実そのものはそれほど変わらない。これが仏教の「心」の捉え方なのです。

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「心は自分ではない」と認識する

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