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生き方

困難は幸せに等しい? 禅の思想が示す「問題が起きた時の捉え方」

鈴木俊隆、(翻訳:藤田一照)

2022年10月12日 公開 2023年12月15日 更新

僧侶の鈴木俊隆氏は、人が抱く感情的な問題は、全て作り出されたものであると語ります。問題に振り回されないために必要な「ありのままを受容する」大切さについて解説します。

※本稿は、鈴木俊隆著、藤田一照訳『[新訳]禅マインド ビギナーズ・マインド』(PHP研究所)から一部を抜粋し、編集したものです。

 

坐禅を日常と呼び、日常を坐禅と呼ぶ

道元禅師は、「今、真夜中であっても、夜明けはそこにある。たとえ夜明けがやって来ても、それは夜である」と言いました。このような言葉は、ブッダから祖師へ、祖師から道元禅師へ、そして私たちへと受け継がれてきた理解を伝えています。

夜と昼は異なったものではありません。同じものが夜と呼ばれることもあれば、昼と呼ばれることもあるだけなのです。昼と夜は1つのものです。

坐禅の修行と日常の活動は1つのものです。私たちは、坐禅を日常と呼び、日常を坐禅と呼びます。

しかし、私たちは通常、「これで坐禅が終わった。さあ、日常の活動に取り掛かろう」と考えます。しかし、これは正しい理解ではありません。その2つは同じものなのです。

私たちはどこにも逃げ場がありません。ですから、活動の中に、静けさがあるべきであり、静けさの中に、活動がなければなりません。静けさと活動は異なるものではないのです。

どの存在も、他の何かに依存しています。厳密に言えば、他から分離した個別の存在というものは存在しません。1つの存在に多くの名前があるだけです。

ときどき、人々は一体性を強調しますが、これは私たちの理解ではありません。私たちは、たとえそれが一体性であっても、特定の論点を強調することはしません。確かに一体性は貴重です。

しかし、多様性もまた素晴らしいのです。人々は、多様性を無視して、唯一の絶対的存在を強調しますが、これは一面的な理解です。このような理解では、多様性と一体性の間に隔たりがあります。

しかし、一体性と多様性は同じものなのですから、それぞれの多様な存在の中に一体性を見てとらなければなりません。

私たちが、ある特定の心の状態よりも、日常生活を重視しているのはそのためです。瞬間瞬間に、そしてそれぞれの現象の中に、実在を見出さなければなりません。これは非常に重要なポイントです。

 

愛には憎しみがなければならない

道元禅師は「すべてのものに仏性が備わっているけれども、われわれは花を愛し、雑草は好まない」と言いました。これは人間の本性についても言えることです。

しかし、美しいものに愛着を感じることはそれ自体仏の活動なのです。雑草を好まないことも仏の活動です。私たちはそのことを知らなければなりません。そのことを知っていれば、何かに執着しても大丈夫です。それが仏の執着であれば、それは無執着です。

ですから、愛には憎しみ、あるいは無執着がなければなりません。そして、憎しみには愛、あるいは受容がなければなりません。愛と憎しみは1つのものです。私たちは愛だけに執着してはいけません。

私たちは、憎しみを受け入れなければなりません。私たちは、雑草のことをどう感じようとも、雑草を受け入れるべきなのです。雑草を好まないのなら、雑草を愛してはいけません。雑草を愛するのなら、愛しなさい。

普通、皆さんは自分が周囲の環境に対して不公平であるという理由で自分を批判します。物ごとを受容しない自分の態度を批判します。

しかし、普通の受容の仕方と私たちの受容の仕方は、まったく同じように見えても、両者には非常に微妙な違いがあるのです。私たちは、夜と昼の間に隔たりはない、あなたと私の間に隔たりはないと教えられてきました。これは一体性を意味しています。

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物ごとをありのままに知るということ

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