物ごとをありのままに知るということ
しかし、私たちは一体性でさえ強調することはありません。それが1つであるならば、その1つであることをことさらに強調する必要はないのです。
道元禅師は、「何かを学ぶということは、自分を知ることであり、仏教を学ぶということは、自分を学ぶことである」と言いました。
何かを学ぶということは、それまで知らなかったことを身につけることではありません。あなたは何かを学ぶ以前にそれを知っているのです。何かを知る前の「私」と、何かを知った後の「私」の間には、何の隔たりもありません。
愚かな人と賢い人の間に隔たりはありません。愚かな人は賢い人であり、賢い人は愚かな人です。しかし、普通私たちは、「彼は愚かで、私は賢い」とか、「私は愚かだったが、今は賢くなった」と考えます。
自分が愚かだとしたら、どうして賢明であることができるのでしょう。しかし、ブッダから私たちに伝えられた理解は、愚かな人と賢い人の間には何の違いもないということです。確かにそうなのです。
しかし、私がこのように言うと、人々は私が一体性を強調していると思うかもしれません。しかし、そうではありません。私たちは何も強調していません。
私たちがしたいのはただ、物ごとをありのままに知ることだけです。もし私たちが物ごとをありのままに知っているならば、これだと言って指さすものは何もありません。何かを把握する方法はどこにもありません。
把握できるようなものも何一つありません。どのような論点であっても特別に強調することはできません。
それにもかかわらず、道元禅師が言ったように、「花は、われわれがそれを愛しているにもかかわらず、散り、雑草は、われわれがそれを愛していないにもかかわらず、生える」(「花は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり」 『正法眼蔵』現成公案)のです。たとえそうであっても、それが私たちの人生なのです。
ブッダが伝えた「真の理解」
このように、私たちの人生は理解されるべきです。そうすれば何の問題もありません。ある特定の論点に重きを置くせいで、私たちはいつも問題ごとを抱えているのです。
私たちは物ごとをありのままに受容するべきです。これが、すべてのことを理解するやり方であり、この世界での生き方なのです。
このような経験は、私たちの思考を超えたものです。思考の領域では、一体性と多様性の間に違いがあります。
しかし、実際の経験においては、多様性と一体性は同じです。一体性や多様性について何らかの考えを作るから、その考えにとらわれてしまうのです。そして、実際には考える必要がないのに、果てしない思考を続けなければならなくなるのです。
私たちは感情的にたくさんの問題を抱えていますが、それは現実にある問題ではありません。そういう問題は作り出されたものなのです。私たちの自己中心的な考えや見解によって問題として取り上げて指し示されたものなのです。
何かを問題として指し示すからこそ、問題があることになるのです。しかし、実際には、何か特定のものをそういうものとして指し示すことはできないのです。幸せは悲しみであり、悲しみは幸せです。困難の中に幸せがあり、幸せの中に困難があります。
感じ方が違っても、本当は違っているのではなく、本質では同じなのです。これがブッダから私たちに伝えられた真の理解です。