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なぜ自己主張できない? 欧米人が驚く“日本人の争いを避ける”ための知恵

榎本博明(心理学博士)

2022年12月05日 公開

学校教育や企業研修などでディベート・スキルを磨く練習をするなど、自己主張が推奨されるようになってきたが、自己主張が苦手だと感じている日本人は少なくないはず。

そこには、日本人特有のさりげないやさしさ、相手に負担をかけないように配慮するやさしさなどが文化として根付いていることが影響しているという。

ごく自然に発揮しているやさしさが日常の中で、周囲にどのような影響を与えているのか、心理学博士の榎本博明氏に話を聞いた。

※本稿は、榎本博明著『「やさしさ」過剰社会 人を傷つけてはいけないのか』(PHP新書)から一部を抜粋・編集したものです

 

自己主張にブレーキをかける日本人

やさしさということについて改めて考えるに際して、日本文化に根づくやさしさについて押さえておきたい。そのために、まずはなぜ自己主張がしにくいのかということからみていきたい。

日本人は自己主張が苦手だが、グローバル化の時代だから、ちゃんと自己主張できるようにならなければと言われ、学校教育や企業研修でもディベート・スキルを磨く練習をするなど、自己主張が推奨されるようになってきた。

それにもかかわらず、相変わらず自己主張が苦手な日本人が圧倒的に多い。今どきの若者は自己主張が強いと言われたりするが、それでもかなり気を遣っており、自己主張は苦手だという者が多い。

学生に聞いても、授業でグループで議論することが多いけど、他の人が言った意見が間違っていると思っても指摘できない、こんなことを言ったらさっき意見を言った人が傷つかないかなと思ったりしているうちに発言のタイミングを逸することが多い、などと言う。

そのような心理には、多くの日本人が共感できるのではないだろうか。

私たちは、自己主張しないようにと意識しているわけではないが、無意識のうちに自己主張にブレーキがかかる心の構造をもつのである。

どこまでも自己主張する心を文化的に植えつけられている欧米人と違って、私たちは意見を言う際に、自分の意見を無邪気に主張することなどできない。

ものごとにはいろんな側面があり、いろんな見方があることがわかる。相手の立場や気持ちを思いやる心を文化的に植えつけられているため、自分の見方を堂々と主張するようなことはしにくい。

自分の立場のみから自己主張するなんて、思いやりに欠け、自己チューでみっともないといった感覚がある。だから自己主張がしにくいのだ。

自己主張が苦手なことに対して、「自分の意見がない」などと批判されることが多いが、けっして自分の意見がないわけではない。「こうしたい」「こうしてほしい」「こう思う」といったものは当然ある。

意見がないのではなく、相手の視点もわかるため、自分の見方だけを一方的に主張するような自己チューな行動は取れないということなのである。

ゆえに、欧米式に遠慮なく自己主張する人物に対しては、「利己的で見苦しい」と感じてしまう。そんな自分勝手な自己主張をしたら、相手に対して失礼だし、相手の気持ちを傷つけるではないかと思う。だから遠慮なく自己主張するなどということができないのだ。

そのように自己主張が苦手な心には、ある意味でやさしさが溢れていると言えないだろうか。

作家よしもとばななが、父親の思い出をつぎのように語っている。

「いちど、うちの実家に長く来ているおじいさんの庭師さんが、言ったことと全然違う感じに庭を造ってしまったことがあった。母は「その分お金を払ったんだし、直してもらおう」と言った(まさに私も言いそうな感じのこと)のだが、父はなぜだか小さくなって「いっしょうけんめいやってくれたんだから、これでいいっていうことにしようよ」と言った。そのもじもじした言い方がなんとも言えず優しくて、言っている内容以上に私をはっとさせた」(よしもとばなな「小さな声」「AERA」2015年1月12日号)

 

「自己中心の文化」と「間柄の文化」

私は、欧米の文化を「自己中心の文化」、日本の文化を「間柄の文化」と名づけている。日本の学校教育でいくら自己主張のスキルを高める教育をしたところで、子どもや若者が自己主張が苦手なままなのは、そもそも日本の文化には自己主張は馴染まないからだ。

自己主張する心の構えは、もともと欧米流の自己中心の文化のものであり、間柄の文化のものではない。そこを教育界を動かす人たちは見逃している。

欧米などの自己中心の文化では、自分が思うことを思う存分主張すればよい。何の遠慮もいらない。ある事柄を持ち出すかどうかは、自分自身がどうしたいのか、自分にとって有利かどうかで判断すればよい。あくまでも基準は自分自身がどうしたいかにある。

それに対して、日本のような間柄の文化では、一方的な自己主張は避けなければならない。ある事柄を持ち出すかどうかは、相手や周りの人の気持ちや立場を配慮して判断することになる。基準は自分自身がどうしたいかにあるのではなく、相手と気まずくならずにうまくやっていけるかどうかにある。

謝罪するかどうかも、自己中心の文化と間柄の文化では、基準が違ってくる。

欧米などの自己中心の文化では、謝るかどうかは「自分が悪いかどうか」で決まる。自分が悪いとき、自分に責任があるときは謝る。悪いのは自分ではない、自分に責任はないというようなときは謝らない。単純明快だが、それは自分だけが基準だからだ。

一方、日本のような間柄の文化では、自分が悪いわけではなくても、相手の気持ちを配慮して謝るということがある。だれにも落ち度がないからだれも謝らないとなると、被害を受けた人や今実際に困っている人の気持ちが救われないと感じれば、自分に責任がなくても、「すみません」と容易に謝る。

間柄の文化では、単に「自分が悪いかどうか」を基準に謝るかどうかを決めるのではない。間柄を大切にするために、自分に非がない場合でも、相手の気持ちや立場に想像力を働かせ、思いやりの気持ちから謝ることもある。

そこには、自己中心の文化にはみられない2つの心理が働いている。

ひとつは、思いやりによってホンネを棚上げして謝罪し、相手の気持ちをこれ以上傷つけないようにしようとする心理、いわば相手の気持ちに少しでも救いを与えたいという心理である。

もうひとつは、自分に非がないことをどこまでも主張するのは見苦しいと感じる心理、言いかえれば、自己正当化にこだわるのはみっともないし、大人げないと感じる心理である。

自分の視点からしかものを見ることがなく、自分の視点に凝り固まりがちな欧米人には、このような意味での謝罪は理解できないに違いない。

だが、間柄の文化では、自分の視点を絶対化しない。相手には相手の視点があり、それを尊重しなければと思えば、自分の視点からの自己主張にこだわることはできなくなる。

自分には何も落ち度はないけれど、相手が困っているのはわかるし、腹を立てるのもわかるというような場合、自分には責任がないからといって開き直るのは大人げないし、思いやりに欠けると感じる。

そこで、相手の気持ちに救いを与える意味で、自分に非がなくても容易に謝る。それが間柄の文化のもつやさしさと言える。

人身事故で電車が遅れているときなど、困惑し興奮して文句を言ってくる乗客に対して、自分にはまったく責任がないのに「すみません」と丁重に頭を下げる駅員も、このような思いやりの心理によって謝っているのである。

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自分の意見を押しつけないやさしさ

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