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生き方

いい人なのに信用できない「戦略的なやさしさ」を見抜くコツ

榎本博明(心理学博士)

2022年12月14日 公開

 

乱暴な言葉に込められた真意を探る

欧米社会は、言葉を重視する社会、もう少し言うと、言葉がすべてという社会であるため、やさしさを伝えるために、やたらほめるし、好意や愛情を言葉で表現する。

親は子どもに対して、「お前はパパにとって自慢の息子だ」などと言い、子どもは親に対して、「僕もパパのことを誇りに思ってるよ」などと返すのは、アメリカなどではごくふつうに見られる光景だろうが、日本には馴染まない。

欧米コンプレックスの強い日本人が、このようなやりとりを真似た子育てをすることがあるが、それはとんでもない甘やかしになったりする。

なぜなら、そもそも欧米人がやさしい言葉で距離を縮めようとするのは、もともと心理的距離が遠いからである。言い換えれば、他者から切り離された個を生きているからである。

親子といえども、夫婦や恋人同士といえども、個々に切り離された自己を生きている。だから、せめてやさしい言葉で距離を縮めないと、バラバラになってしまう。

そのため、親子が右にあげたようにほめ合ったり、夫婦が、「君はとっても魅力的だよ。愛してるよ」「あなたもとっても素敵よ。愛してるわ」などと毎日のように気持ちを確認し合うのである。

日本の場合、そのようにひとりひとりが切り離されていないため、わざわざ言葉でほめたり、愛を囁いたりして心理的距離を縮める努力をする必要はない。そんなことをしたら、距離が近くなりすぎて、おかしなことになる。

甘やかされた人物、とくに母子密着気味にある人物が、友だち関係や恋人関係、ひいては夫婦関係に支障を来しがちなのも、そのような事情による。

欧米では乳児期から親子は別室で寝るのに対して、日本では幼児期や児童期になっても親子が同じ部屋で寝ることが多い。日本では、児童期のはじめくらいまで親子が一緒に入浴するのもよくあることだが、欧米では幼児であっても親子が一緒に入浴することはない。そんなことをしたら親による性的虐待とみなされる。

そうした事情を知らずに、海外在住の日本人の子どもが幼稚園や小学校で、親と一緒にお風呂に入ったと言ってしまい、警察に通報されるというようなことがあるため、アメリカにある日本の総領事館ホームページなどでは注意を促している。

このように、日本の場合は、そもそも「相互に独立した個」を生きているのではなく、「相互に依存し合う間柄」を生きているため、お互いに影響を与え合うし、心理的距離が非常に近い。

いわば、心理的一体感があるため、やさしい言葉を使ってほめたり、持ち上げたりしなくても、気持ちは十分に通じ合っているのである。

弟子に対して、「こんなこともできないでどうするんだ! 使えないヤツだな」と乱暴な言葉をぶつけている親方が、弟子の成長を心から願っていて、成長がみられたときは、本人をほめたりしないものの、陰で涙を流して喜んでいたりする。

このようなやさしさが日本には伝統的に根づいている。

ある料理屋で、父親の店を継いだという若い店主と話したとき、「オヤジはほんと厳しかったですよ。こんなまずいもの、商売になるかって、叱られるばかりで、必死にやりましたよ。まだまだだけど一応OKが出たとき、ほんとに嬉しかったですね」などと、父親の厳しさを語っていた。店を任された今でも、ケチをつけるようなことばかり言われるという。

その父親とも会ったが、息子が頑張っていることをとても嬉しく思っているようで、言葉ではほめないものの、柔らかな笑顔がそのことを物語っていた。

このように、乱暴な言葉とは裏腹なやさしい気持ちが溢れている、というのもよくあることである。そこに気づくことができないと、世の中のやさしさの大切な部分を見失うことになる。

 

やさしさは、心理的に距離を取ること

最近の若い人たちを見ていると、気持ちを共有するやさしさから、相手の気持ちに踏み込まないやさしさのような、心理的に距離のあるやさしさへの移行がみられる。

だが、相手の心に踏み込まない、嫌な気分にさせない、というようなやさしさは、いざというときに助けにならない。

やさしい人には相談できない、やさしい人は困って逃げてしまう、だから精神科に相談に来る、今はそんな時代になっているという。

ここで言うやさしさは、目の前の相手を不快にさせないやさしさだ。だが、もっと長い目で見て相手を思うやさしさを見逃すべきではないだろう。

相手に反発されたり、拒否されたりするのを怖れて、相手の間違いを指摘できないというのは、目の前の相手を傷つけたくないという意味でのやさしさであり、相手のためという視点ももちろんあるのだろうが、気まずさを避けたいという気持ちの方が圧倒的に強いのではないだろうか。

今は対人不安が非常に強い時代と言える。対人不安というのは、人づき合いを不安に思う心理のことである。

もともと人とのつながりを生きている日本人は、人からどう思われるかをとても気にする傾向があるが、SNSによってたえず人とつながっている状態に置かれる人が増えたためか、相手の反応を過度に気にする傾向がますます強まっているように思われる。

そこで、気まずさを避けようというだけの上辺のやさしさが世の中に増殖している。

耳に痛いことを言われれば傷つくし、できることなら耳にやさしい言葉を聞いていたいものだが、こっちのためを思って言ってくれた厳しい言葉は、やさしさとして受け止めたい。

だれだって面倒な話を聞かされるのはかったるいし、せっかくの楽しい気分を暗い話で台無しにされたくない。それなのに、心やさしい繊細な人は、イヤと言えずに相手の重たい話を聴いて、傷ついてしまうから、やさしい人には相談できない。

そのように言われるやさしい人というのは、弱い人のこととも言える。相手のために、そのくらいの負担を負えないのは、けっしてやさしいとは言えない。

気まずさを避けるだけでなく、ほんとうのやさしさを発揮し合えるかかわりを求めてもよいのではないだろうか。

そのためには、自分自身も相手のために相応の負担を負う覚悟が必要となるが、それこそがやさしい関係なのではないか。

 

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