アリも働きすぎると「疲労する」
次はこの問題について考えてみましょう。
私たちが注目したのは「アリも疲労する」という事実でした。イソップの童話のせいかどうかは知りませんが、いままでアリが疲れるということを考えた人はいなかったのです。
しかし、全ての動物は筋肉で動いており、生理的に筋肉は必ず疲労します。疲れたら、ある時間休まないと仕事を続けることはできません。それはアリも同様です。
さてここで、全員が一斉に働いてしまうような、短期的生産性の高いコロニーを考えてみます。このようなコロニーは、時間あたりの仕事処理量は高いでしょうが、その代わり、全ての個体が一斉に疲れて誰も働けなくなるという時間が生じてしまうでしょう。
もし、コロニーに絶対にこなさなければならない仕事があるとしたら、その瞬間には誰もその役割を担えなくなってしまいます。その仕事ができないことがコロニーに大きなダメージを与えるとしたら、その仕事をこなせる誰かが常に準備されていないと大変なことになります。
もしかすると、「働かない働きアリ」は、誰も働けなくなる危険きわまりない瞬間のリスクを回避するために用意されているのかも知れません。
そんな仕事があるのでしょうか。あると考えられます。
アリやシロアリは卵を1カ所に集めて、常にたくさんの働きアリがそれを舐めています。シロアリでの実験では、卵塊から働きアリを引き離してしまうと、ほんのわずかな時間放置しただけで卵にカビが生えて全滅してしまうことがわかっています。
さらに、シロアリの働きアリの唾液には抗生物質が含まれており、働きアリたちは唾液を卵に塗り続けてカビを防いでいたのでした。
アリも同様でしょう。卵が全滅すればコロニーにとって大きなダメージになりますから、卵を舐めるという仕事はコロニーにとって、誰かが必ずこなし続けなければならない仕事なのです。
普段働かないアリは仕事が出す刺激が大きくなれば働きますから、他の個体が疲労して休まなければならない時に代わりに働くことができます。
そうやってコロニー内の重要な仕事を途切れさせないようにすること。これが常に働かないアリが準備されなければならない理由だと考えられます。
そのような状況を想定したシミュレーションでは、疲れがある場合にのみ、反応閾値の変異を持つコロニーは、そうでないコロニーよりも長く存続することが示されています。
また、シミュレーションでも実際のアリのコロニーのどちらでも、普段働くアリが休んでいる時には普段働かないアリの仕事量が増えるという、仕事の交替が起こることも示されています。
やはり、短期的生産量が少ないという反応閾値の変異システムは、長期的存続性を保証するために進化したのだと考えることができそうです。
この話は、訪れるかも知れないリスクを回避するための形質が進化するという点において、カブトエビの繁殖戦略の話に似ています。
しかし、重要な違いは、カブトエビの場合は、変動するのは環境であり、環境が好適でなくなるリスクに対する適応だと考えられるのに対して、働かないアリの場合は、外部環境ではなく、自分たちの集団の内側に生じるリスクに対する適応であるということです。
どれだけ安定した環境に住んでいようとも、このリスクは生じます。動物が疲れるという生理的な制約から逃れることはできないからです。
やはり、リスク回避に対する適応という現象は、私たちが思うよりもずっと普通の現象なのかも知れません。
これまでの適応度の考えではうまく説明できない現象も、このようなリスク回避と長期的存続という観点から、未来の進化生物学では説明されていくことでしょう。