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生き方

児玉源太郎の愛すべき磊落さと心遣い

『歴史街道』編集部

2011年02月10日 公開 2022年08月17日 更新

児玉源太郎の愛すべき磊落さと心遣い

※本稿は、『歴史街道』2011年3月号 総力特集「児玉源太郎」(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

「遊ぶなら児玉将軍のように遊ぶべし」。児玉源太郎の花街における評判である。

大体、名士などという者が花街で遊べば、我が物顔で威張り倒し、あげくに権勢を笠に着て名妓に言い寄る始末。芸妓から煙たがられる者も多かった。

児玉源太郎も花街にはよく通ったが、権勢などどこ吹く風。芸妓が唄えば傾聴し、話をすれば相手になって楽しむ。そして賑やかに騒いで座を盛り上げ、大抵夜九時には帰ってしまう。その遊び方は酒々落々(しゃしゃらくらく)と評された。

時に、日清戦争開戦直前のこと。朝鮮で東学党の乱が起こり、日本と漬国との衝突も避けがたい切迫した中で、元老の山県有朋、伊藤博文、井上馨をはじめ、桂太郎、曾禰荒助など、長州出身者が築地の香雪軒で袂別の小宴を開いた。時局がら清国についての話題となるが、芸妓は退屈で白けてしまう。後輩の桂、曾禰らは、元老を前に大人しく座っていた。

そんな座敷に騒ぎながら入ってきたのが、陸軍次官の児玉だった。元老がいようがお構いなく、酒席は陽気に騒くものとぽかりに、芸妓の唄を手拍子で盛り上げる。あげくには羽織に丁髷(ちょんまげ)の鬘(かつら)をかぶって踊り出し、座は大騒ぎとなった。

山県や伊藤らも煙に巻かれてしまい、宴は大団円のうちにお開きとなったという。芸妓たちからすれば、児玉ほどいいお客さんはいなかった。

その宴の帰り道、騒いだ余韻が醒めやらぬまま、児玉は鼻歌交じりで往来を行く。頭には先ほどまでの丁髷の鬘を載せていた。通りがかりの芸妓などをからかいつつ、ほろ酔い気分で歩いていると、怪しんだ警官に声をかけられ、遂には交番まで連行されてしまった。

陸軍次官が交番で取り調べを受けるという滑稽ぶりであったが、折りよく心配して後から追ってきた副官が釈明して、何とか事なきを得たという。警官も丁髷鬘の小男の正体を知って、さぞや驚き呆れたことであろう。

こうした児玉の気負わぬ磊落な性格と弱い立場の者を思いやる心遣いは、終生変わることはなかった。

日露戦争では満洲の地で自ら指揮を執り、ロシア軍との戦いに心血を注ぐ日々であったが、ある時、ふと兵卒の食事が気になった。炊事係に問えば、普段以上にいいものを持ってくる恐れがあるため、児玉は誰にも気づかれないように食事の配給途中を待ち伏せした。

そして、やって来る配給係から弁当の一つをひょいと取り上げて食べてみると、頗る粗末な内容。「兵士にこんなものを食わせるな」と大いに怒り、それを境に充実した食事になった。兵卒は皆、感謝したという。勝利後、浅草の凌雲閣で開催された日露戦争展でのこと。児玉の写真を見て、偉大だと讃える二人の陸軍将校がいた。

すると後ろから「児玉はそれほどたいした男ではありませんよ」という声がする。かちんときた将校たちが振り向くと、そこにいたのは何と児玉本人だった。将校たちが驚く様子を見たかった児玉の茶目っ気だったが、あるいは率直な自己評価であったのかもしれない。

智謀をめぐらし、卓越した政治手腕を発揮した児玉であるが、こうした人々に愛される気負いのない磊落な性格があってこそ、数々の偉業をなし得たのかもしれない。

 

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