八冠独占という前人未到の偉業を成し遂げた藤井聡太さん。
その圧倒的な強さを支えているのは、才能だけではなく、「将棋を究めたい」という飽くなき探究心と日々の積み重ねだと谷川浩司十七世名人は見ます。
しかし、絶対的に思えた藤井時代にも変化が訪れます。その一角を崩したのが、初対局から11連敗を喫しながら叡王を奪取した伊藤匠さんでした。藤井さんの強さの本質とは何か。そして、たった「1勝」が棋士の心理と勝負の景色をどう変えるのか、解説していただきます。
※本稿は、谷川浩司著『名人論 稀代の天才たちはいかに戦ったか 』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
「将棋を究めたい」という情熱
藤井聡太さんの八冠独占は、もちろん歴史的偉業である。将棋界の内側にいる者の感覚から言えば、それは「衝撃」でもあった。
タイトルが一人に集中する時代というのは、他の棋士が弱いから起こるとは言い切れないと私は思う。むしろ上位棋士全員が強い。その強い者たちが、順番に挑み、研究し、工夫し、それでもその一人だけには届かない。そういう時代ではないかと思う。戦後にそういう時代を築いたのは大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、羽生善治九段の3人だった。
一つのタイトルを防衛し続けるだけでも難しい。タイトルごとに形式は違い、番勝負の長さも違う。相手も違えば、準備の仕方も変わる。そのすべてを同時に抱え込みながら勝ち続けるというのは、単純な実力比較では語れない。体力、研究、適応力、精神力─そのすべてが最高水準で嚙み合わなければ不可能である。
羽生善治さんが七冠を独占した時代もそうだったが、こういう偉業を成し遂げた第一人者がいる時代には、近い世代のトップ棋士たちの心に独特の重さが生まれる。誰も口にはしなくても、「この人の時代がずっと続くのではないか」という空気が漂うのである。実際、一人にタイトルが集中すると、周囲はただ負けたという以上の感覚を持つ。自分たちがどれほど工夫しても、時代の流れそのものが一方向に傾いていくように感じられるからだ。
藤井さんは、きらびやかな才能だけで勝っている人ではない。むしろ、日々の積み重ねを愚直に続けられるという、もう一つ別の才能を持っている。勝ち負けやタイトルの数だけを追っているようには見えない。もっと深いところで、「将棋の真理」に近づこうとしているように見える。その姿勢が、結果として、周囲の棋士たちに「自分たちはどこまで将棋に向き合えているのか」を突きつけているかのようにも見える。
全冠制覇後の時代というのは、他の棋士が弱い時代ではなく、強い者がひしめき合いながら、今一歩、届かなくなる時代だと私は思う。だが、これも誰かが一角を崩せば時代の空気も変わる。
一角を切り崩した伊藤匠
藤井さんの八冠独占の時代は、2023年10月11日から始まり、24年6月20日に終わった。伊藤匠さんが、叡王戦において3勝2敗で藤井さんから叡王のタイトルを奪取したのだ。八冠の時期は8カ月余。羽生善治さんの七冠(当時はこれが全冠だった)の時期は5カ月余だったので、全冠保持は藤井さんの方が少し長かった。それでも二人とも1年には達しなかったところに、将棋界のすべてのタイトルを保持し続けることの難しさが現れているように思う。
伊藤さんはさらに2025年10月28日、山梨県甲府市の常磐ホテルで行われた第73期王座戦五番勝負第五局で藤井さんに勝ち、シリーズ成績を3勝2敗として王座を奪取した。これにより、伊藤さんは叡王・王座の二冠となった。
私は、現在の将棋界で藤井さんの終盤力に最も対抗できるのは、伊藤さんだと思っている。もちろん、終盤の正確さ、読みの速さに優れた棋士はほかにもいる。だが、藤井さんを相手にした時、終盤で「何かが起きる」匂いを最も濃く持っているのは伊藤さんのように見える。
藤井さんは、めったなことでは逆転負けしない。勝勢になれば、そのまま押し切るのが常である。ところが伊藤さんとの番勝負では、藤井さんが良い将棋を逆転される場面が実際にあった。番勝負は、すべてを完璧に勝つことが難しい。どこかで一局、「流れを変える勝ち」が必要だ。その一局をつくれるのが、今の伊藤さんのように思える。
1勝が壁を壊す
ここで強調しておきたいのは、伊藤さんは、藤井さんに初対局から11連敗をしていたことである。苦手な相手はどの棋士にもいるとは思うが、特定の棋士に11連敗となると、いくら藤井さんが相手とはいえ、伊藤さんは相当こたえたはずだ。
しかし、2024年の叡王戦第二局で伊藤さんは藤井さんに初勝利を上げた。すると、何かがふっきれたように第三局も勝ち、第四局は落としたものの、最終第五局に勝ってタイトルを奪取した。
その後は2025年の王座戦五番勝負で両者がぶつかり、伊藤さんは第一局、第四局を落としたものの残り三局を勝ち、藤井さんから王座を獲得した。その後、二人の対局は2026年の朝日杯将棋オープン戦決勝での対局で、これは藤井さんが勝っているが、伊藤さんが11連敗後の両者の対戦では、ほぼ互角の成績が続いている。
叡王戦第二局の対藤井戦初勝利で、伊藤さんの見ている景色が大きく変わった。植え込まれつつあった「この人には勝てない」という意識が、ようやく消えたのだろうと思う。いったん心理的な壁が崩れると、将棋の指し手も一気に変わることがある。実力の話であると同時に、感覚の話でもある。相手が絶対者に見えているうちは、自分の読みのどこかに遠慮が混ざる。
だが、1度でも勝てば、その遠慮が消える。藤井さん相手にそれが起きたということ自体、伊藤さんの実力の高さを示している。







