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近江商人はなぜ東海道ではなく、中山道を歩いたのか?

童門冬二(作家)

2018年11月27日 公開 2022年11月30日 更新

近江商人は、商品を売って得たお金を現地で使い切る

また「相手よし」の例に、通貨の問題があります。

江戸時代の通貨は2つありました。1つが「正貨」、徳川幕府が発行するお金です。
しかし正貨は全国に行き渡っておらず、これを補完するものとして「藩札」がありました。約270あった藩がそれぞれ独自に発行する、地域内だけで通用する通貨です。

藩が何をするかというと、地域内でしか通用しない藩札で藩内生産品を安く買い上げて、大阪や江戸で正貨で売り、収入を得ます。しかしこれを続けると藩札の信用が失われます。

理屈で言えば、藩が持っている正札の額が藩札の発行限度額です。2つの通貨は兌換性を持っていますから、藩札を持っている人が「正貨に換えてください」と言ってきたら拒むことができません。

ところが藩は商売のために正貨の5倍、10倍、100倍の藩札を刷ってしまう。結果的に藩札に対する信用はガタ落ちです。

近江商人は、一応品物を正貨で売りました。しかもこれを持ち帰らず、現地の品物に替えてしまうのです。各藩の名産品を、得た正貨で買い込む。

つまり一旦、手にした正貨をそっくり現地に投入してしまうのです。形でいえば物と物との交換をするのが、近江商人たちの商法。これが地域に非常に喜ばれたわけですね。
 

伊勢商人と日野商人のM&Aから「松坂商人」を生み出した蒲生氏郷

近江商人の「三方よし」を、地方行政や地域振興に生かした武将がいます。近江商人発祥の地の1つである日野の城主、蒲生氏郷です。

彼は幼少時、織田信長のところに人質に出されていました。信長は彼を非常に可愛がり、何かというと「氏郷を呼べ」ということになりました。

信長は氏郷を連れて、自分の作った楽市楽座を歩いては「今後の大名には経営が必要だぞ。そろばんを馬鹿にしてはいけない」と教えました。ご案内のように、織田信長は、楽市楽座によって、いつどこで誰がどんな商売をしようとも自由なマーケットをつくろうとしました。

それには日本の物流ルートから邪魔者を除かなければいけないということで、自分が勢力の及ぶ範囲の関所をすべて廃止にしています。そもそも近江商人が発展したのも、楽市楽座による商売の活性化がきっかけとも言われています。

信長はやがて自分の娘ふゆを氏郷に嫁がせました。信長が死んだ後、後継者を指名をする清洲会議が開かれましたが、本当ならこの時、氏郷が有力な候補者の1人になったはず。しかし、これを恐れた豊臣秀吉が、氏郷を日野から、伊勢の四五百(よいほ)というところに異動させました。

伊勢で氏郷が行ったことが、面白いのです。まず氏郷は突然、地名を「松坂」に変更しました。どうしてそういうことをしたか。大名が異動するのにあわせて、商人も一緒に移動します。しかし四五百には伊勢商人がおり、彼らもまた企業努力によってお得意さんを抱えている。そこへドカドカと日野商人が入ってきたら、当然これは軋轢が生じます。

この時、氏郷が賢かったのは、「伊勢商人か日野商人か」の二者択一を行わなかったことです。かわりに「松坂商人」という、新しい地域名になじんだ商人群を作り出しました。

「水は方円の器に従う」という例えがあります。水は容器の形によって丸にも四角にもなる。ここでいう方円の器というのは松坂のことです。1つの器のなかに伊勢商人も日野商人も仲良く入り、松坂商人として新しく生まれ変われと、氏郷は言ったのです。

これにあたっては、伊勢伝来の品物を大事にしながら、日野商人が売り物にしていた薬や漆器、木工品なども、松坂産として売るようしました。

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ヒット商品、会津塗の誕生にも貢献

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