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ハーバード大学が84年かけて解明した「幸福な人生を送る人」の特徴

ロバート・ウォールディンガー(ハーバード大学医学大学院教授)、マーク・シュルツ(ハーバード成人発達研究副責任者)

2023年07月14日 公開 2024年12月16日 更新

ハーバード大学が84年かけて解明した「幸福な人生を送る人」の特徴

「人生を振り返ったとき、あんなにたくさんしなければよかったと思うこと、もっとすればよかったと思うことは何ですか?」こんな質問を向けられたとき、あなたなら何と答えるだろうか。

これからの人生でより豊かな時間の使い方をするためにはどうしたらよいだろうか。そんなヒントを、ハーバード大学の研究が解き明かしている。今回は、書籍『グッド・ライフ 幸せになるのに、遅すぎることはない』から時間の使い方を考えた一説を紹介する。

※本稿は、ロバート・ウォールディンガー、マーク・シュルツ著『グッド・ライフ 幸せになるのに、遅すぎることはない』(&books/辰巳出版)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

限りある人生で、時間をどう使うべきか?

生涯に手にするお金が全額手元にある状態で人生を始める、と仮定しよう。生まれた瞬間に1つの銀行口座が与えられ、支払いが必要なときにはいつでもお金を引き出せる。

働く必要はないが、何をするにもお金がかかる。食料、水、住居、日用品の値段は変わらないが、メールを一通送るだけでも貴重な資産を取り崩さなければならない。何もせず椅子に座っているだけでもお金がかかる。寝るだけでもお金がかかる。何につけてもお金を払う必要がある。

だが困ったことに、口座の残高は把握できない。お金が尽きてしまえば、人生は終わる。

もしこのような状況に置かれたら、あなたは今と同じ生き方をするだろうか? それとも、とにかくどんな形でもいいから生き方を変えたい、と思うだろうか?

もちろん、これは架空の話だ。だが、ある重要な要素を変更すれば、私たちの実際の人生とそれほど違わない。現実には、口座に入っているのはお金ではなく時間だ。そして、時間の総量は知りえない。

「時間をどう使うべきか?」──日常的に頭をよぎる疑問だが、人生は短く不確実であるからこそ、深遠な問いでもある。それに、健康と幸福にも密接に関わる問いだ。

仏教の僧侶が瞑想修行中に唱える真言に「死だけが確実で、死が訪れる時期が不確実なら、私は何をすればいいのか?」という言葉がある。

人生はいつか終わるという避けられない真実を直視すれば、世界の見え方が変わり、大切なものが変わる。

ハーバード成人発達研究では、80代の夫婦を対象とする8日間の調査を行った際、1日がかりの対面調査の最後に毎日違う質問をして、これまでの人生を振り返ってもらった。回答の多くは、時間の大切さに関するものだった。

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7日目──人生を振り返って、あんなにたくさんしなければよかったと思うこと、もっとすればよかったと思うことは何ですか?

イーディス(80歳) ──くだらないことに腹を立てなければよかった。大きな目で見ればどれも大した問題ではなかったから。あんなことを心配しなければよかった。子どもたちや夫、両親ともっと一緒に時間を過ごせばよかった。

ニール(83歳) ──もっと妻と一緒にいたかった。私が仕事の量を少しずつ減らし始めた矢先に、妻は亡くなってしまった。
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多くの人に共通する回答があったなかで、これらはほんの2例にすぎない。ほぼすべての被験者が、時間の使い方を後悔していた。注意を払うべき事柄についてしっかり考えなかったと感じていた被験者も多かった。

過ぎゆく日々に追われていると、人生は淡々と過ぎていき、人生を形づくる間もなく、人生に流されてしまう。

多くの人と同じく、本研究の被験者のなかにも、晩年を迎え、来し方を振り返り、「友人にあまり会えなかった」「子どもたちに十分な注意を払ってあげられなかった」「重要でないことに時間を費やしすぎてしまった」という思いを抱く人がいた。

ここで、時間を「費やす」、注意を「払う」といった動詞に注目してほしい。

言語には──おそらく英語はとくにそうだが──経済用語があふれかえっているため、こうした言葉の使い方は自然だし当然だと思えるが、時間と注意には、言葉が意味するものをはるかに超える、かけがえのない価値がある。

時間と注意はあとから補充することができない。時間と注意こそ人生そのものだ。時間と注意を相手に差し出すとき、私たちはそれらを単に「費やしたり、払ったり」しているわけではない。自分の命を相手に与えている。

哲学者のシモーヌ・ヴェイユも、「注意を向けることは、寛大さの最も貴重で純粋な形である」と述べている。なぜなら、注意──時間──は、人間が手にしているもののなかで最も価値があるからだ。

シモーヌ・ヴェイユの言葉から数十年後、禅の師であるジョン・タラントは著書『The Light Inside the Dark』(「闇の中の光」、未邦訳)の中で、ヴェイユの洞察をさらに掘り下げ、「注意は愛の最も基本的な形である」と書いた。

ここでは、言葉にしがたい真理が示されている──愛と同じく、注意も双方向の贈り物だ。相手に注意を向けるとき、私たちは相手に自分の命、人生を与える。その過程を通して自分自身も、いつも以上に生きている実感を得る。

時間と注意は幸せになるために欠かせない材料だ。時間と注意は「私たちの命がわき出る貯水池のようなものなのだ」というほうが、「払う」「費やす」といった経済用語を使った比喩よりも正確だ。

貯水池から水の流れを導くと、特定の地域を潤すことができるのと同じように、注意を向けることで人生の特定の部分を活気づけ、豊かにすることができる。

だから、自分の注意がどこに向かっており、自分が大切に思う人と自分のメリットになるところに向かっているかどうかを確かめることに損はない(注意は双方に恩恵をもたらす)。

大切な相手と自分は幸せだろうか? 二人が最も生き生きとする活動や目標のために、しっかりと時間をつくっているだろうか? 二人にとっていちばん大切なのは誰なのか? その人たちとの関係や課題などに、十分な注意を向けているだろうか?

 

今日の「時間不足」と明日の「余剰時間」

「注意」という言葉は2つの意味で使われる。

1つめは、「優先順位」や「費やした時間」という意味だ。自分にとっていちばん大切なものを最優先し、時間配分リストのトップに置いているだろうか?

すると、こう反論したくなるかもしれない。「口で言うのは簡単ですよ。私の毎日をご存知ないのですからね。時間は魔法で増やせるわけではないんです。家族を養い、子どもたちを学校に通わせるため、自分の時間は仕事に投じています。精一杯の状況なのに、どうやったら時間を捻出できるんですか?」

もっともな疑問だ。ならば、時間について少し説明させてほしい。

人はしばしば、自分の自由になる時間について矛盾した感覚をもっている。一方では、やりたいことをする時間どころか、すべきことをする時間すら足りないという「時間不足」の感覚がある。

他方では、未来のどこかの時点で「余剰時間」を手にできるはずと考える傾向がある。いつかきっと、やるべきことに忙殺されない時期がやってくる、と考えるのだ。

里帰りや旧友への電話など、何につけ「あとでもやれる」と思いがちなことについてはだいたいそうで、「いずれゆっくり取り組む時間がたっぷりできるはず」と思っている。

たしかに、責任や義務を果たすのに忙しすぎてどうにもならない、と感じている人は多い。21世紀になり、社会が大きく変化するなかで、自由になる時間はどんどん減っているという感覚があるし、忙しくて時間的余裕のない人ほどストレスが増え、健康状態も悪くなっている。だから、時間不足を強く感じるのは労働時間が伸びているせいだ、と想像するのも無理はない。

だが、実はそうではない。20世紀半ば以降、世界的に、平均労働時間は大幅に短くなった。米国人の平均労働時間は1950年より10%短いし、オランダやドイツなどでは労働時間は40%も減っている。

これらは平均値であるため、労働者のタイプ別の補足説明が必要だ。例えば、ワーキングマザーは余暇時間が最も少ない。また、学歴が高くなるほど労働時間が長くなり、低くなるほど余暇時間が長くなる。

つまり、現実はそう単純ではない。とはいえ、データを見れば、昔より今のほうが労働時間が減っているのは明らかだ。にもかかわらず、現代人は時間が全然足りないと感じている。なぜなのだろう?

その問いを解くカギは、「注意」という言葉の2つめの意味にある。つまり、時間の使い方、具体的には、そのときの心の動き方にある。

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