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「五・一五事件」の青年将校はなぜ減刑されたのか? 政党政治への国民の失望

2023年05月26日 公開

井上寿一(学習院大学法学部教授)

 

国民の軍部への評価が一変した出来事

昭和5年11月、浜口雄幸首相が、東京駅で右翼に銃撃される暗殺未遂事件が発生した。実行犯の「統帥権干犯」への憤りから発したこの事件が、その後の軍部の決起に間接的な影響を与えたのは間違いない。

もっともこの段階では、先に述べたように国民の多くは政党内閣を支持しており、軍人蔑視の感情を持っていた。明白な転換点となったのは、翌昭和6年(1931)9月の柳条湖事件を発端とする満洲事変である。

浜口内閣が昭和6年4月に総辞職した後、政権は立憲民政党の第二次若槻礼次郎内閣が引き継いでいた。

若槻内閣は事変の不拡大を模索したが、関東軍は独断で拡大路線を突き進み、それに引きずられて世論も大きく転換していった。若槻内閣が方針とした日中提携の外交を、「弱腰」と非難し、軍の行動を支持するようになっていく。

その世論の転換に重要な役割を果たしたのが、新聞などのメディアだった。当初は速報合戦に始まり、やがて満洲事変を擁護し、焚きつけるような報道姿勢に転換していった。

柳条湖事件は、後世から見れば関東軍によるものだとわかるが、当時の日本国民は「中国側が仕掛けたもの」と信じていた。軍部は中国を懲らしめ、満洲国という理想の国家をつくろうとしている──そう思い込んだ国民は、軍部への評価を一変させていった。

若槻内閣は12月には総辞職に追い込まれ、その後を継いだのが、立憲政友会を率い、五・一五事件で暗殺される犬養毅首相である。

翌年3月には、満洲に住む諸民族による国家、という体裁をとった「満洲国」建国が宣言された。五・一五事件のわずか2カ月前のことである。

 

政党政治への疑念

国民の心が政党政治から離れていったのは、何も満洲国への熱狂だけが理由ではない。

浜口首相の暗殺未遂のあと、野党の立憲政友会は重傷の癒えない浜口を無理やり国会に引きずりだし、論争でやり込めることを繰り返した。これを見せられた国民は、党利党略の渦巻く酷薄な政治の世界に幻滅したことであろう。

もっとも、与党の立憲民政党にも問題があった。ロンドン海軍軍縮条約について野党の追及を受けたとき、国会で「天皇陛下がよかったと仰っているからいいのだ」と答弁したからである。

天皇の権威を持ち出して政策を正当化するのは、政党政治ではあってはならない。ところが条約締結は「問答無用」のお墨付きを得て、帝国議会で採決された。

当時は立憲民政党と立憲政友会の二大政党が競う状況にあったが、こうした党利党略に走り、泥仕合を演じる政党政治に、国民は辟易しつつあった。

そこへ満洲事変が勃発し、報道される戦果に接するうちに、「純粋で私利私欲がなく、真に日本のことを考えて行動しているのは軍人ではないか」として、国民の評価が変化していったのである。

五・一五事件の後、新聞に掲載された首謀者の青年将校たちの動機を読むと、失業者の増加、農村の貧困などを問題とし、現代風にいえば社会的格差の是正を訴えている。

これを受け、「テロリズムは決して肯定できるものではないが、首謀者たちは日本社会の現状を憂え、やむにやまれず直接行動に出た」と当時の国民の多くが同情を寄せ、事件を起こした青年将校たちの減刑を嘆願する署名運動が始まった。

海軍の青年将校たちは、五・一五事件に呼応して変電所などを襲った愛郷塾 (水戸で組織された農本主義の私塾)のメンバーに比べ、相対的に刑が軽かった。その背景には、軍部が事件を政治腐敗のPRに利用したこと、減刑嘆願を海軍が官製国民運動として仕掛けたことの二点を指摘できるであろう。

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