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「五・一五事件」の青年将校はなぜ減刑されたのか? 政党政治への国民の失望

2023年05月26日 公開

井上寿一(学習院大学法学部教授)

 

二・二六事件との比較から考える

五・一五事件そのものの原因をたどるならば、ロンドン海軍軍縮会議に行きつく。首謀者たちの裁判の公判記録を読むと、条約締結における「統帥権干犯」への憤りは、国際連盟において満洲事変が強く非難されたことへの怒りにつながっている。

要するに青年将校たちは、「国際協調」「軍縮」という世界の潮流そのものに不満を募らせていたのである。

昭和7年(1932)2月から3月にかけて、政財界の要人を狙った連続テロ「血盟団事件」が起こった。これにより第二次若槻内閣の蔵相だった井上準之助、大物実業家の団琢磨が暗殺されている。

血盟団の中心人物・井上日召らは「一人一殺」を掲げ、事後の具体的な構想もないままに、順番に要人を殺害することのみを目的としていた。それでも井上が指摘した政治家や財閥関係者の腐敗は、軍人の共感を呼び、この文脈のなかで五・一五事件も決行されている。

こうして政権転覆のような大きな計画性もない、情緒的、空想的なテロリズムとして五・一五事件は起こった。

のちの二・二六事件と比較すると、二・二六事件は本当に皇道派の軍人政権ができるかもしれない一歩手前まで行っており、陸軍も当初はそうなることを容認していた。海軍や財界などが支持しなかったこともあり、陸軍の統制派が鎮圧に動いた。

対する五・一五事件はその経緯からすればお粗末なものだが、国民が軍人に対して寄せた共感と好意は、二・二六事件とは比較にならないほどに大きかった。

2つの事件の違いの背景には、昭和6年12月の犬養内閣から昭和11年の二・二六事件で暗殺されるまで、蔵相を務めた高橋是清の積極財政政策で、日本経済が復活を遂げていたことが挙げられる。

統計的に見ると、昭和10年(1935)、11年は戦前の日本経済のピークであった。日本は恐慌による経済危機から、いち早く脱却できた国なのである。

五・一五事件が起こった昭和7年は、よく知られているように、東北を中心とした農村部の困窮がとくにひどかった。ところが昭和11年は違った。ようやく経済的に落ち着いてきたときに二・二六事件のようなクーデターを起こされても、国民が共感できるものはなかったのである。

 

五・一五事件前後の経緯から何を学ぶか

五・一五事件前後の時代背景を見てきたが、現代の私たちはそこから何を学ぶべきか。今までは、満洲事変から太平洋戦争敗戦に至る昭和初期を、「軍部の横暴に国が支配された暗黒の時代」とする解釈が一般的だった。

しかし、ここで見落としてはならないのは、「国民感情」や「国民の支持」だ。それらを背景に軍部の台頭が加速していったことは、これまで述べた通りである。

以上の歴史から私たち国民が学ぶべき教訓は、健全な政党政治を守り、育てていくことであろう。

戦前の立憲民政党と立憲政友会の二大政党制が、党利党略を優先した足の引っ張り合いに堕していたことは否定できない。

互いに政策を訴えて論争し、有権者にどちらがいいか決めてもらうのが健全な二大政党制だとするならば、相手のミスを誘って自滅させたら自動的に政権が転がり込んでくるというやり方は、二大政党制の悪いところが出てしまったケースといえる。

「政策論争のない政党政治はいらない」と国民が思ってしまったのも、無理からぬところがある。

しかし政党政治への失望によって、結果的に、国民自らが軍部の台頭を招き寄せてしまったことの意味は重大だ。

政党政治の発展と民主主義成熟には、時間がかかる。国民には、政党政治をあきらめることなく、忍耐強く見守り、育てていく姿勢が求められる。各政党の政策をよく見定め、一回一回の選挙で意思表示をしながら、政党政治が健全に機能するように導いていく心構えが国民に必要なのだ。

現代政治を見わたすと、主に1990年代以降は政党が次々に生まれては消え、すべての名前を思い出すのも一苦労である。

与党・自由民主党と野党第一党の日本社会党の対決構図になった昭和30年(1955)からの55年体制は、40年近く続いた。その時代に比べて現代は、「政党の使い捨て」のような状況に陥ってしまっている。

犬養首相を暗殺した青年将校に共感を寄せるのではなく、国民の代表として選ばれた政治家による政党政治に期待し、支持することが、最終的に国民全体を未来の悲劇から救う──。五・一五事件は、そんな教訓を投げかけているといえないだろうか。

 

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