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「五・一五事件」の青年将校はなぜ減刑されたのか? 政党政治への国民の失望

2023年05月26日 公開

井上寿一(学習院大学法学部教授)

 

社会主義的な理想まで説き始める軍部

犬養首相を暗殺した青年将校の証言で、「犬養個人に怨みはない。政党政治を象徴する人物としての犬養を暗殺しただけだ」という趣旨の説明があった。これは国民感情にも訴えるものがあったのだろう。

「憲政の神様」といわれた犬養首相の死を悼む一方で、犬養が率いる立憲政友会の現状は正さなければならない。こうした考え方のなかで、手段はよくないが目的は評価できるという見方が広まっていった。

現代の私たちの価値観からすると、「政党が善玉、軍部が悪玉」であり、軍部の横暴によって政党政治がつぶされ、軍国主義一色になったと理解しがちである。

しかし当時の現実からすれば、「政党政治がうまく機能しないのであれば、軍部に政治を任せてもいいのではないか」と、国民に思わせるだけの状況が揃っていたのである。

実際、軍部も、軍部の指導によって「社会主義」の理想を実現しようとする国家社会主義的な考えを持つ者が増えている。

なかには「相続税を100%課税にして相続を認めない」「土地の私有は千坪までとする」といった極端な富の再分配を説き、国民を軍部に引き付けようとする者まで出てきていた。

国家社会主義は、国に総動員体制を確立するには非常に便利な思想であり、軍事化することで社会が平準化する側面もあるため、軍国主義との親和性がある。

軍部が社会の矛盾を解決し、改造してくれるという期待を国民が抱いたことで、軍部は対外戦争や軍事力の拡大により積極的に動けるようになった。

その意味で五・一五事件は、その後の日中戦争、太平洋戦争につながる国民意識を醸成するきっかけになったといえる。

 

五・一五事件に始まる対外戦争への道

五・一五事件をきっかけに軍部の力が強くなると、昭和11年(1936)の二・二六事件のころには、陸軍皇道派の青年将校のクーデターを陸軍が鎮圧するという展開に、「軍部がなければ、クーデターを防げなかった」とプラスの評価がされるようになる。

軍部が起こした事件を軍部が鎮圧したことで、より軍部の立場が強くなるという不思議な現象が起こっていたのである。

昭和12年(1937)7月、北京郊外の盧溝橋で日中両軍いずれかの発砲をきっかけに、偶発的な軍事衝突が起こる。この盧溝橋事件を発端として、泥沼の日中戦争が始まるのだが、ここまでに軍部の力が強くなっていなければ、全面戦争に突入することはなかったかもしれない。

しかしこの段階では、すでにシビリアン・コントロール(文民統制)は効かなくなっており、広田弘毅外務大臣が不拡大方針を掲げて和平交渉を試みても、軍部をおさえることはできなかった。

この日中戦争の長期化が、のちに米英などを相手にした太平洋戦争に拡大していくことを考えると、太平洋戦争の敗戦からさかのぼって、その遠因を五・一五事件に求める見方は十分に成り立つ。

五・一五事件は、テロやクーデターとしては非常にずさんな計画で行なわれており、それ自体に評価すべきところはない。だが、こうした事件がのちの歴史に大きな意味を持つことは往々にしてある。

昨年7月の安倍晋三元首相の暗殺事件も、実行犯の動機は非常に個人的なものだったが、結果的には日本の国内政治を大きく揺るがすものになったことは周知の通りだ。もちろん、同列に語ることはできないが、要人の暗殺というのは一国の社会や歴史にそれほどの意味を持ってしまうことがある。

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