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アレクサンドロス大王はなぜ、世界を征服しようと考えたのか

2018年10月11日 公開
2018年10月23日 更新

佐藤賢一(作家)

アレクサンドロス
 

マケドニアがギリシアを征服できた理由

バルカン半島の付け根の東側、テルマイコス湾の奥、ピエリア山脈の裾に版図を構えたマケドニアは、ギリシアのポリスからみれば遥か北の外れです。

建国が前7世紀半ば、アルゲアス家を王、ギリシア語の「バシレウス」ですね、この称号で担ぎ上げ、それを「ヘタイロイ」と呼ばれる貴族が支えているという王国です。

はじめは弱小勢力でした。前6世紀末、アミュンタス一世という王は、マケドニアの保身のため、ペルシアに臣従しています。その息子のアレクサンドロス一世にいたっては、前480年、ペルシア戦争のときですね、ペルシアのクセルクセス一世の軍隊に同行して、一緒にギリシアを攻めています。まあ、それで戦争の帰趨を左右したわけでもない弱小勢力、ひたすら自らの生き残りに汲汲としている。マケドニアは、そんな国だったということです。

力をつけ始めたのが、ペロポネソス戦争の頃からでした。山国ですから材木が豊富で、これが船の材料として大売れしたんです。諸ポリスが艦隊の整備に迫られていたときで、そのまま戦争に突入してポリスが潰し合いを演じたことも、マケドニアの存在感を増さしめたといえましょうね。

それにしても、ギリシア世界の主役ではありません。マケドニア人も一応はギリシア人で、スパルタなんかと同じドーリア人の一派、西方方言群と呼ばれる一派なのですが、先進のポリスからみると、「バルバロイ」、つまりは野蛮人と大差なかった。民主政の世界からすると、王政なんか敷いていること自体が、もう後進国の証なんですね。

こんなマケドニアが先進ポリスをさしおいて、どうして打倒ペルシアの旗手になったのか。

そう問われれば、まさしく政治も経済も文化も遅れた田舎だったから、マケドニアは典型的な辺境だったからと答えるべきでしょうか。

歴史、あるいは政治や経済をみるときでも、しばしば引かれるのが辺境理論ですね。次の時代の覇権を握るのは、そのとき覇権を握っていた地域からみた辺境であるという。

簡単にいえば、辺境は覇権を握っていた地域、つまりは先進地に学べるわけです。それも効率がいい。先進地が苦労して創り上げたものを、自分たちは苦労しないで、結果だけパッと持ってきて、すぐ使うことができるんです。

マケドニアに話を戻すと、ペルシア戦争が終わった頃から、それこそペルシア軍に味方した王アレクサンドロス一世ですね、この王からギリシア文化の輸入に努めるようになりました。

ヘラクレスの末裔なんだと称したり、ギリシア人しか参加できないオリンピックに出たいと熱烈に望んだり、もうギリシアの仲間に入りたくて必死ですね。

次のアルケラオス王は都をアイガイからペラに移すんですが、その新都は全てにおいてギリシア風を心がけましたし、そこに数々の文化人も呼びました。アテネの悲劇作家エウリピデスなんかも、そのひとりです。

前399年、そのアルケラオス王が暗殺されて、マケドニアは40年ほど混乱と停滞、ことによると存亡の危機にさえ見舞われました。前359年、あげくに王位についたのが、当時まだ23歳にすぎなかったフィリッポス二世です。

マケドニアの歴史を大きく転換させる王ですが、このフィリッポスも典型的な辺境の個性でして、先進地ギリシアの良いところを貪欲なばかりに取り入れていきます。

例えば軍事─実をいうと、フィリッポス二世は前368年から前365年の3年間、マケドニアが敵対しない保証として、テーベに人質に出されています。人質といっても投獄されるわけでなく、有力者の家に軟禁される程度、場合によっては懇ろに教育を施されるんですが、その有力者というのがエパメイノンダスだったんです。

あの『プルタルコス英雄伝』にも出てきますね。前360年代におけるテーベの優位を築いたエパメイノンダスとペロピダス、古代ギリシア史上屈指といわれる二人の名将のうちのひとりである、エパメイノンダスのことです。

前371年、スパルタと戦ったレウクトラの戦いで、エパメイノンダスは斜線陣を用いました。左翼、中央、右翼を、斜めに前列、中列、後列となるよう並べて、まず左翼にして前列で攻撃開始、これで敵を押さえながら中央中列、さらに右翼後列で取り囲んでしまう戦術です。

この当代最高の戦いぶりを、フィリッポス王子は間近で観察できたわけです。

この斜線陣、マケドニア王になったフィリッポス二世の得意技のひとつになります。他にもスキタイ人やトラキア人からは楔形陣を取り入れましたし、シュラクサイからは破城槌、攻城塔、投矢機など、先進の攻城兵器も学びました。即位一番に取り組んだ兵制改革なども、テーベ体験をはじめとするギリシアに学んだ賜物でした。

マケドニアは山国ですから、馬の産地で、伝統的に軍は騎兵が中心でした。これが後進地と笑われる所以で、先進地のポリス、古代ギリシアの兵士といえば歩兵なんです。「ファランクス」と呼ばれる、重装歩兵の密集隊ですね。

周知のようにオリンピックは古代ギリシアが発祥ですが、その陸上種目、槍投げ、円盤投げ、砲丸投げ、ハンマー投げ、高跳び、幅跳び、徒競走などは、歩兵に求められる技能ですね。レスリングにもグレコ・ローマン(ギリシア・ローマ)スタイルがあって、あれも歩兵の技です。騎兵は組んだり投げたりしないわけです。

そのギリシアの歩兵をフィリッポス二世は、マケドニア軍に導入したんです。捕われていたテーベには「神聖隊」という、ペロピダスが率いる300人、当時無敗の精鋭部隊もいましたから、大いに刺激されたんだと思います。

ただフィリッポス二世は、そのまま模倣するのではないんですね。例えば槍の長さを変える。先進ポリスの槍より長い、5.5メートルの長槍を採用して、密集歩兵隊もマケドニア独自のスタイルを編み出すわけです。

かねて得意の騎兵も廃止せず、歩兵と騎兵を組み合わせた戦術を考えます。さらにいえば、これらを常備軍にしました。以後マケドニアの兵士は全て職業軍人です。いつでも、どこでも、どれだけでも使うことができますから、しごく有効な兵力になります。

これ、ギリシアは違うんですね。先進ポリスは民主政ですから、兵役も市民の義務のひとつです。結果、兵士は日本史にいう「半士半農」になります。季節兵士といいますか、素人兵といいますか、民主政の理念にはかなうけれど、軍隊としては相当な制約を受ける仕組みなんですね。

ポリスはそうやって発展してきたから仕方ない。けれど、マケドニアは倣わない。歩兵隊、歩兵戦術とプラスは入れるけれど、マイナスは無視して、むしろ逆方向に改革する。そうしてフィリッポス二世は、最強の軍隊を作り上げたわけです。

まあ、最強の常備軍も、金だけはかかります。生産的な労働はひとつもしませんからね。ポリスの市民兵は、そこは安上がりだったわけです。給養の経費は莫大でしたが、フィリッポス二世はマケドニア東境パンガイオンで、金鉱を開発します。その上がりで常備軍を養う。のみか諸ポリスの有力者を抱きこむ賄賂にもなりました。外交でマケドニアの有利を整えると、まず始めたのがギリシア統一でした。

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