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今さら他人に聞けない「アメリカの黒人」の歴史

2020年09月29日 公開
2022年06月16日 更新

上杉忍(横浜市立大学名誉教授)

アメリカ500年の歴史の中での黒人

16世紀、カリブ海域を征服したスペインは、アフリカ大陸から黒人奴隷を連行、この地におけるプランテーション(単一作物の大規模農園)の労働力として使役し始めた。

その後、オランダ・イギリス・フランスなどが参入し、多くの黒人たちが南北アメリカに連れてこられた。

そして奴隷制度の是非も争われた、1861年からの南北戦争。その最中にリンカーンが奴隷解放宣言を発し、まもなく、アメリカ合衆国での奴隷制度が廃止された。

しかし、それでもなお、黒人に対する差別は解消されず、いま再び大きな問題になっている。

黒人差別はなぜ生まれたのか。この問題は、なぜいつまでも解決しないのか。その歴史を『アメリカ黒人の歴史 奴隷貿易からオバマ大統領まで』の著者である横浜市立大学名誉教授の上杉忍氏が伝える。

 

世界でも際立つアメリカの差別意識が根付いてしまった根本原因

ミネアポリスの黒人ジョージ・フロイド氏が、白人警官に首を圧迫され、「息ができない」とうめきながら殺された場面を映した動画が瞬く間に全世界に広がった。その過程で、アメリカでは、白人警官による黒人殺害が頻発していることが、広く知られるようになった。

巷では、「黒人奴隷制が廃止され、その後の法的人種差別が、1960年代の公民権運動を経て撤廃され、2008年には大統領に黒人のオバマが選ばれるほどの変化を遂げた。なのに、なぜ、今また! これからもアメリカは変わらないのだろうか!」と、驚きの声が聞こえる。

白人を含む人種差別に抗議する運動が全米各地のみならず、世界各地に広がり、国連人権理事会は、ほとんど即座に「黒人への差別や警察による暴力解消を求める決議」を全会一致で採択した。

しかし、「問題は全世界共通のもの」との一部の国の主張によって、アメリカの名はこの決議から削除された。

これに対して、全米市民自由連合は、「先進国の中でも特に警察による黒人の殺害が多いアメリカという言葉の削除は非常識だ」と批判した。

黒人に対する差別は全世界に広がっているが、アメリカの「黒人差別」には、黒人差別一般ではくくれない独自性がある。

この国では、公衆の面前でリンチされた黒人は、確認されただけでも数千人に及び、これまで警官に殺害された黒人もおそらく数万に上ると言われている。しかも、殺害に関わった白人の大半は無罪放免とされた。

この国では、数万の黒人が、白人だけの陪審員による「裁判」の結果、処刑されたり、囚人労働キャンプに送られたりしてきた。こんな国は、他にはない。

今、この瞬間にも、アメリカの黒人は、「黒人の命が問われている(Black Lives Matter)」と恐怖を感じているのだ。日本滞在経験のあるアメリカ黒人レジー・ライラさんは、日本では「じろじろ見られたけれど、外国人への好奇心だったと思う」、しかしアメリカでは「どこに出かけるか、どの道、どんな地域を通るのか、そこでいかにふるまうのかを四六時中、考える」と言う。

他の国とは明らかに異質である黒人差別は、なぜアメリカに根付いてしまったのか、その歴史を遡って考えてみよう。

 

 南部の先住民族が駆逐されたのは黒人奴隷制を守るため

アメリカでは「血の一滴のルール」と言われ、一滴でもアフリカ系の血が混じっている者を全て、「黒人」とみなす規則や習慣が存在してきた。

この国では、奴隷制時代はもちろん、その後も白人男性と黒人女性との間に多数の混血が生まれた(その逆の白人女性と黒人男性との間の混血は極めて少ない)。

色が薄く、眼の青い、金髪の者も少なくないが、混血は、全て「黒人」として扱われる。実際に個別に詳しく調べてみると、少しでも白人の血が混じっている「黒人」の比率は、かなり高い。

今日でも、これらの「黒人」はその大半が、黒人居住区に住み、子供たちは「黒人学校」に通っている。一時は、白人居住区の子供と黒人居住区の子供をバス通学によって「人種統合」させる試みも行なわれたが、白人住民の反対にあい、まもなくほとんど停止されてしまった。

白人と黒人の結婚は、今でこそ禁止されてはいないが、庶民の間ではほぼ皆無だ。町で、白人と黒人のカップルを見かけることはまずない。

これに対してカリブ海域では、アメリカのような厳格な人種隔離社会は存在せず、「混血」が多数存在しているし、結婚も珍しくない。色の白い女性と黒い男性が手をつないで街を歩いている姿もよく目にする。

なぜこの違いが生まれたか。その原因には、この2つの地域における黒人奴隷制プランテーションの「安全保障体制」の違いがある。

16世紀から始められた輸出用商品作物栽培を目的とした南北アメリカのプランテーション農業では、アフリカから連行されてきた黒人奴隷を、一種の「強制収容所」であるプランテーションに閉じ込め、逃亡や反抗を抑え込んだ。

しかし、多数の黒人奴隷に労働をしいるこの制度は、奴隷たちの反抗を暴力で抑え込まねばならず、また、プランテーション地域の近隣には、この制度を脅かす勢力(先住民、外国勢力、貧しい白人)がおり、彼らを無力化することが絶対的に重要だった。

北米では、黒人奴隷が導入されたころ、先住民部族はなお強力で、奴隷が先住民地域に逃げ込み、保護されたり奴隷にされたりしたから、彼らは黒人奴隷制にとっての脅威だった。黒人奴隷制を守るためには、彼らを駆逐することがどうしても必要だった。

また、例えば、フロリダがまだスペインの植民地だった時代には、この地域にはセミノール族がおり、逃亡奴隷を受け入れていたし、スペインは、アメリカ領内の黒人奴隷に逃亡を呼びかけ、土地と武器を与えて、フロリダを防衛しようとした。アメリカは、黒人奴隷制を守るために、一刻も早くフロリダをアメリカの領土にする必要があった(1819年に購入)。

しかし、この地域には、白人年季奉公人(主にイギリスの債務者、犯罪者がアメリカにわたり一定期間強制労働に従事し、のちに解放される)が、黒人奴隷の前に導入されていた。

黒人奴隷制の拡大により白人年季奉公人制度は衰退・廃止されたが、奴隷制地域と先住民地域との間には、解放されたこれらの貧しい白人が多数住んでいた。彼らは、先住民征服の先兵の役割を果たし、プランテーションで奴隷監督として雇用されたり、逃亡奴隷狩りに動員されたりした。

南部では、彼らのような奴隷を所有していない白人は全白人人口の3分の2を占め、彼らは、権力を握る大奴隷主や大商人から疎外され、場合によっては、黒人と手を組んで抵抗する可能性があった。

そこで、白人支配層は、「混血」を全て黒人社会に押しやり、貧しい白人たちには武器所有権や参政権を与え、彼らを「〝優秀な人種〟である純粋な白人としての誇り」を共有する白人共同体の一員に取り込んだ。この白人共同体によって奴隷制社会の安全は保障されていた。

カリブ海域では、黒人奴隷が導入されたころ、先住民はすでにほぼ全滅しており、安全保障を脅かす存在ではなかった。ここでは、プランテーションで監督などに雇用される白人はごく少数で、この地域の少数の白人だけでは多数の奴隷を抑え込むことはできなかった。

白人支配層は、白人の血の割合の多い順に「混血」を優遇し、彼らに頼って奴隷の反抗を抑え込んだ。この社会には、白人の血の割合によって細分された階層秩序を持つ混血集団が存在し、混血たちは、少しでも白人の血の割合の多い混血と結婚して、社会的地位を引き上げようと競い合った。

英仏など植民地本国の軍隊は、黒人たちの反抗を抑止するための最後の頼りであり、現地の支配層は、本国から独立して自力で黒人の抵抗を抑圧することが困難だったために、あえて独立の道を選ばなかった。

カリブ海域の植民地本国からの独立が、ハイチなどを除き、南北アメリカ諸国より100年以上も遅れた重要な原因はそこにあった。

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