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なぜ「織田信長の二男と三男」は後継者になれなかったのか?…信雄と信孝の争いと“その後”



2021年02月15日 公開

谷口克広(戦国史研究家)

 

権力を振るい始めた秀吉との衝突

羽柴秀吉は天正11年9月に大坂城築城を開始、そこを根拠地として、織田家の諸将の上に立って権力を振るい始めた。この時期を境に、秀吉政権の時代に移ったと考えてよい。

信雄が依然として秀吉の主筋であるとの矜持を持ち続けるならば、二人の衝突は時間の問題であった。同年の冬頃より、信雄は秀吉から離れがちになっている。

信雄にとって、秀吉と戦いになった場合、頼りにするべき者は、領地を接する徳川家康である。

本能寺の変の後、家康は東方へ向けて独自の動きを見せ、次第に織田家から離れつつあったが、この冬あたりから信雄と交流を再開した様子である。翌年2月、信雄は家康の使者を清須城に受けている。

秀吉は戦いに備えて、織田家の家臣たちを味方に誘った。その手は、信雄の老臣たちへも伸びた。

天正12年(1584)3月6日、信雄は三人の老臣を謀反の罪で誅殺した。秀吉に対する宣戦布告といってよい。

すぐに信雄は軍を招集した。家康も三河を出陣し、両軍は小牧山に集結した。秀吉もまた、間を置かずに大坂を発って尾張へと向かった。小牧の陣の始まりである。

 

逆転した主従関係

戦いは膠着状態が続いた。一度長久手において両軍の衝突があったけれど、その後は目立った戦闘はなく、信雄と家康は半年間も在陣した末、9月に軍勢を引いた。

この戦いはとかく長久手で徳川軍が羽柴軍を撃ち破ったことだけが強調され、秀吉の敗戦と判定されがちである。しかし、畿内など各所における戦いでは、明らかに秀吉方が優勢に戦いを進めている。

両陣営の総力を比べても、信雄・家康連合が秀吉に勝てるはずはあるまい。信雄・家康が何とか引き分けに持ち込んだ、と判定するのが正しいだろう。

信雄はここで秀吉への抵抗を諦めた。11月、信雄は家康に相談することなく、秀吉に会い、独自に講和を結んだ。次いで翌年2月に上洛、大坂に赴いて秀吉に会見した。実質上の屈伏である。

秀吉は主筋にあたる信雄を厚くもてなしたばかりでなく、朝廷に推挙して正三位権大納言に叙任させた。しかし当の秀吉は、半月後に正二位内大臣に昇進している。

こうして信雄は、秀吉との主従関係を逆転されたわけである。一大名に成り下がりながらも信雄は、73歳まで生きた。没したのは寛永7年(1630)、活躍期以上の長い余生だった。

 



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