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特攻隊員になった朝鮮人



2015年07月23日 公開

早坂隆(ノンフィクション作家)

早坂隆
 

光山文博の切なき歌声

大東亜戦争下、「航空機による特攻」で戦没した日本軍将兵の数は4000人を超えるが、その中には20名ほどの朝鮮人も含まれていた。

その内の一人、卓庚鉉は1920年11月5日、朝鮮半島の慶尚南道泗川市にて生まれた。後の日本名、光山文博である。

卓庚鉉が生まれたのは、日本が政府間交渉を経た上で、国際的な承認のもとに韓国を併合してから10年目にあたる。

卓庚鉉の誕生時、一家の暮らしは裕福な方だったとされる。しかし、祖父が事業に失敗した結果、生活は次第に困窮。そんな彼らが選んだのが、日本に「出稼ぎ」に赴き、生計を一から立て直すという道だった。卓庚鉉がまだ幼少だった頃の話である。

訪日した彼らは、京都府に定住した。当時の京都には、1万人以上もの朝鮮半島出身者が住んでいたと言われている。併合以降、朝鮮よりも賃金条件の良い日本での仕事を求めて、多くの朝鮮人が海を渡っていた。

結局、卓庚鉉の父・卓在植は、京都市内で乾物商を立ち上げた。

こうして彼らは、所謂「在日」となった。決して「強制」や「徴用」によって日本に来たわけではない。この歴史的背景をまず適確に押えておかなければ、卓庚鉉の生涯の輪郭に触れることはできない。

一家は「光山」という姓を名乗り、卓庚鉉は「光山文博」となったが、この改名も法的強制によるものではない。当時、「朝鮮名のままだと商売がやりにくい」といった理由から、多くの朝鮮人が日本名に改名した。卓庚鉉の一家もこの例に当てはまると考えられる。

光山文博は地元の小学校を卒業した後、立命館中学へと進んだ。名門中学への進学は、彼自身の十分なる能力の高さを証明するであろう。

いずれにせよ、光山は人生の大半を日本で過ごしており、朝鮮に関する記憶は殆どなかったと思われる。光山は日本の教育を受け、日本語を使いながら育った。その後、光山は京都薬学専門学校(現・京都薬科大学)に進学した。

昭和18年(1943年)9月、同校を繰り上げ卒業となった光山は、翌10月に陸軍特別操縦見習士官(特操)を志願。見事、試験に合格し、同校の第一期生となった。陸軍特別操縦見習士官とは、高等教育機関の卒業生や在校生の志願者の中から、予備役将校操縦者として登用された者のことを指す。愛称は「学鷲」。短期間で優秀な航空要員を養成することが、同制度の目的であった。

併合後の日本は、朝鮮人に対して徴兵制を敷かなかった。しかし、少なからぬ朝鮮人が「日本人と共に戦いたい」と入隊を希望した。日本軍が朝鮮人に門戸を閉ざすことこそ「差別」「屈辱」であると彼らは主張した。

昭和12年(1937年)、日本の衆議院議員となっていた朝鮮出身の朴春琴が「朝鮮人志願兵制度」を請願。翌昭和13年(1938年)、「陸軍特別志願兵令」が公布されたことにより、朝鮮人による兵卒の志願が認められるようになった。日中戦争下、朝鮮人の志願兵は右肩上がりに増え続けた。

かかる時流の中で、光山は陸軍特別操縦見習士官への道を志願したことになる。

ちなみに、朝鮮人への徴兵制が施行されたのは後の昭和19年(1944年)4月、実際に徴兵が適用されるようになったのは同年9月以降のことである。

即ち、日本は欧米列強と比べても、「植民地人の軍事利用」には概して消極的であった。イギリス軍は東南アジアの戦線において、インド人兵士やグルカ兵(ネパールの山岳民族)を最も危険な最前線に投入して戦局を組み立てたが、日本軍はそのような体制は構築しなかった。

昭和18年10月、鹿児島県の南部に位置する大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に入校した光山は、この地で航空兵としての基礎的な訓練課程へと入った。

そんな彼が、休みの日曜日になると頻繁に訪れるようになったのが近隣の「富屋食堂」であった。知覧駅からほど近い商店街に面して建つ富屋食堂は、昭和4年(1929年)に女主人・鳥濱トメが開いた店である。

知覧分教所の開校は昭和16年(1941年)12月だが、同店は翌昭和17年(1942年)1月以降、陸軍の指定食堂となった。うどんや蕎麦といった麺類の他、各種丼物やカレーライスが人気で、夏にはかき氷も好評だったという。

光山はトメを実母のように慕った。普段はもの静かな照れ屋で、一人でいることの多かった光山だが、トメとはとりわけ親しくなった。

光山はトメと出逢ってまだ間もない時期に、自分が朝鮮人であるという事実を告げたという。当時の日本国内において、朝鮮人を不当に蔑視する愚人がいたことは、否定し難き事実である。そんな背景を知悉していたトメは、光山に対して殊に気を使って接した。光山は食堂の裏手にある離れの座敷で過ごすことを好んだ。

トメの夫・義勇は南薩鉄道のバスの運転手だったが、二人の間には長女の美阿子、次女の節子という二人の娘があった。当時、美阿子は17歳、次女の節子は13歳だった。光山はこの二人とも程なくして仲良くなり、共に連れ立って近くの麓川の土手などをよく散歩した。光山には妹が一人いたが、トメの娘たちの姿に実妹の面影を重ねていたのかもしれない。

そんな光山だったが、昭和19年(1944年)7月、栃木県宇都宮市の教育隊へと転属。トメたちとも別れることとなった。その後、光山は茨城県の鉾田基地へと移動。そんな転々とした営為の中でも、光山はしばしばトメに、

「知覧のおばちゃん、元気ですか」

などと綴った葉書を寄せた。

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