常に自分は見捨てられるのではないかという不安に悩んでいる人がいます。不安に苦しむ、几帳面な"執着性格"の人は、本当に味方になってくれる人を失い、搾取しようとする人ばかりに囲まれてしまうことも。早稲田大学名誉教授の加藤諦三氏が解説します。
※本稿は、加藤諦三著『だれとも打ち解けられない人』(PHP研究所)より一部抜粋・編集したものです。
一人では生きていけないと感じる
小さい頃、あなたは母親の言うことを聞かなかった。そのときに「あなたがそんなに悪い子なら、お母さん家を出て行っちゃう」というようなことを母親に言われなかっただろうか。これが「見捨てるという脅し」である。
親は、これらの恐れを利用して子どもを育てることがある。親が子どもに言うことを聞かせるために、この「見捨てるという脅し」を利用する。
その結果、子どもは生きること自体を恐れるようになる。うつ病者の考え方が悲観的な傾向にあるのは、これが1つの原因ではなかろうか。自分の人生に何かよくないことが起きるのではないかと、いつも恐れている。
彼らは、あまりにもいつも「見捨てるぞ」と脅されてきたのである。そしてこの恐れこそ、その人をいつまでも依存的にしてしまう原因の1つでもあるだろう。他人にしがみついていなければ生きていけない。見捨てられたら一人では生きていけないと、大人になってもそう思うようになる。
実は大人になれば、執着性格者は一人でも生きていけるだけの力はあるのだが、生きていけないと思ってしまう。そして、周囲の人から見捨てられるのが怖くて、周囲の人に迎合する。迎合することで、ますます一人では生きていけないように感じる。
そういう人の会話を考えてみる。
「黄色?」
「ハイ、黄色です」
「雨か?」
「雨です。晴れではありません」
「昨日晴れだったろう、えー? 晴れだよね」
「うかつでした、晴れでした」
「左ですか?」
「左です」
それが「おいしいか? まずいか?」は関係ない。すべては相手がどう言うか、で決まってしまう。
本当の味方に見捨てられてしまう
うつ病になるような人は、心理的に置き去りにされているときもある。ずるい人は、利用するときに限ってやってくるものだから、彼らは置き去りにされる。本人は淋しいからそれでも喜んでしまう。
「捨て子」と思われるといけないから、質のよい人にも質の悪い人にも、奉仕する。この八方美人が苦労の始まりである。
うつ病になるような人は、なぜ真面目に一生懸命生きているのに、これほど苦労をするのか、ということの原因がつかめていない。
「見捨てられる」という表現を使うと、自分とは関係のないことと多くの人は思うだろう。「見捨てられる」ということが自分と結びつかない。
やさしくいえば、その場で自分によくしてくれる人に感謝をし、そちらに気が引かれていくことである。ちょっとしたことでも、その人を「いい人」だと感じて、尽くそうとする。
それは決して愛情からではなく、恐怖感から尽くす。奉仕するのも対象無差別。本当に自分のことを考えてくれる人に奉仕するのではない。
むしろ、本当に自分のことを一生懸命やってくれている人には、やってもらえるのが当たり前という感覚になる。どんなに尽くしてもらっても、感謝をしないで、不満になる、怒る。
ずるい人には表現できない怒りを、誠実な人にぶつける。こうして誠実な人から限りなく愛を貪る。
自分のことを一生懸命にしてくれている人を逆に恨む。誠実な人が、苦労して自分に「してくれること」を当たり前のことと受け取る。だから何かしてくれないと、してくれないからということで誠実な人を恨む。
そして何もしてくれない質の悪い人に怯えて、バカみたいに感謝する。そして質の悪い人に舐められて利用される。
ずるい人で、常に相手を利用しようとする人にとっては、うつ病になるような人はまさに鴨ネギである。そこで誠実な人も、「これはダメだ」と思い、嫌気がさして去ってしまう。
「いつ見捨てられるか」と恐れているから、人には強く出られない。そして「この人は見捨てない」と思った人には、態度を一変させて貪り出す。それが誠実な人から貪るということである。ある時点まで来ると、周りにいる人はみな質の悪い人になっている。