写真:片岡杏子
2011年に明石市長選挙で初当選し3期12年間に及ぶ活動の中で、様々な社会問題と向き合い全国に先駆けた「新制度」スタートさせてきた泉房穂氏。
一貫して「こどもを核としたまちづくり」 「すべての人に "やさしい"まちづくり」に取り組んできた明石市の活動は、市内外問わず多くの人の関心や賛同を集めてきました。
これまで、市民の大黒柱として奮闘・挑戦してきた泉市長。その原動力は、幼少期に誓った「冷たい社会をやさしい社会に変える」という復讐心にあると語ります。
※本稿は、泉房穂著『社会の変え方 日本の政治をあきらめていたすべての人へ』(ライツ社)から、一部抜粋・編集したものです。
軽視される“日本の貧困と差別”
私が生まれ育った明石市の二見町は、瀬戸内海に面した小さな漁師町。私も漁師の子です。貧乏自慢をする気はありませんが、今から思えば、それなりに貧乏だったように思います。
4つ下の弟が障害をともなって生まれてきたのは、1967年のこと。そのときから、私たち家族の闘いは始まりました。
生まれ落ちた弟の顔は真っ青。チアノーゼ(酸欠状態)で息も絶え絶え。障害が残ることは明らかだったようで、そんな弟を前に、病院は両親に冷酷に告げました。「このままにしましょう」。つまり「見殺しにしよう」ということです。
病院がなぜそんな対応をしたのか。当時、日本には「優生保護法」という法律がありました。「不良な子孫の出生を防止する」。つまり、これ以上障害者を増やさないことを目的に、国を挙げて障害のある方に強制的に不妊手術や中絶手術を行う、差別施策を推進していたのです。
さらに兵庫県では、その法律以上の差別施策が全国に先がけて展開されていました。「不幸な子どもの生まれない県民運動」。1966年、当時の兵庫県知事が旗振り役となり、そのための組織を県庁内に立ち上げ、力を入れて取り組んでいました。
障害のある子どもを「不幸」と決めつけ、「そんな子は生まれる前に、ないしは、生まれたらすぐに命を終わらせよう」という運動。
今の時代からすれば信じがたいことかもしれませんが、歴史的な事実です。そんな社会的圧力の中で、医師は当然のように弟を「生まれなかったことにしよう」と言ったのです。
兵庫県の運動は1972年まで、優生保護法は1996年まで続きました。国や県が制度をつくり、強制的に人の命を奪う。たった30年前まで、とんでもないルールがあたりまえとされていました。それが、私たちの暮らす日本社会だったのです。
小学校卒業と同時に漁に出た父と、中学校卒業で女工を経て結婚した母です。行政の方針に沿った病院の対応に、抵抗できるわけはありません。
けれども「最期のお別れを」と言われて弟を見たとき、堪え切れず、「どうか命だけは」と泣き崩れ、「家に連れて帰りたい」と懇願したそうです。
なおも冷たく説得を続ける病院は「障害が残ってもいいのか?」と問い質しました。それでもいい。両親は腹をくくりました。「覚悟しています」。そして、弟を私が待つ自宅へと連れて帰ってきたのです。
冷たい社会への「復讐」、この言葉が自分の原点にある気持ちに一番近いように思います。
少数派の声を拾わない社会の姿
命を救われた弟ですが、障害が残りました。2才のときには、脳性小児麻痺で「一生起立不能」と診断されています。
当時、障害を持つ子どもを診てくれる医師は限られていたので、弟と同じ病院で、同じようなお子さんがおられた他の家族にも出会いました。両親はその家族らとともに手を取り合って、障害のある子どものための運動を始めました。
その小さな運動は、ある意味、明石における福祉活動の原点と言えるかもしれません。そして、明石市内にあった母子寮の一部屋を借り、障害のある子どもたちとその家族のための居場所をつくったのです。
私も学校の帰りや休みにそこに立ち寄り、弟や他の障害のある子どもたちといっしょに時間を過ごしました。日中は近くの小学校で全員が健常者の中で生活し、放課後には障害のある子どもたちの中で1人だけ五体満足の自分がいる。
一方には自由に走り回れて、しゃべることができる子どもばかり。そこでは「もっと速く走れ」「早く書け」と求められる。もう一方には、歩くこともできず、言葉を発するにも苦労している子どもたちがいて、歯を食い縛っている世界がある。
部屋の片隅で、学校では感じることのない少数者としての感覚、疎外感を覚えながら、「いったい、どっちが本当なのか?」と考えるようになりました。自分が多数派である世界と、少数派である世界を同じ日に行き来する日々です。
どこにいても同じ自分のはずなのに、立場も気持ちも異なる状況に置かれてしまう。人は誰も、常に多数派でもなく、常に少数派でもない。おそらくそうなのだろうと思ったりもしました。
環境や見方が違えば、誰もがどちらにもなりえます。実はみんなが両方に属しているのです。多数派のルールだけで物事を絶対視するのはどうなのか。漠然と疑問に感じていました。
障害を持つ子どもたちはたくさんいる。だけど、そういった少数派は存在しないかのようにして成り立っている変な社会が目の前にある。実際に存在するのに、そんな子はいないかのような扱いをしている学校が「嘘っぽい世界だ」とも感じていました。
「何かがおかしい。何かが間違っている。きっと世の中の何かが間違っているに違いない」。
子ども心に、そう思えてなりませんでした。同じ社会に生きているのに、多数は居心地が良くても、もう一方の少数派はしんどい思いをしている。両方の立場を行き来していた者として、こんないびつな社会のあり方が、まともだとは到底思えなかったのです。
なぜ別々なのか。なぜ分けないといけないのか。いっしょで何が問題なのか。みんないっしょで、いいじゃないか。
多数派に合わせておけば足りるのが「あたりまえ」の社会がずっと続いていくのなら、少数派はどうすればいいのか。少数者を存在しないかのように扱うことで、世の中のいったい誰が幸せになるというのか。
そんなことを平然と続けている社会、そこにある「あたりまえ」を変えたい。次第に強くそう考えるようになっていきました。
誓約書に書かされた2つの条件
弟に「一生起立不能」の診断が下された直後でした。弟の前途を悲観した母は、弟といっしょに身を投げて死のうとしました。無理心中を図ろうとしたのです。でも、未遂で終わりました。
「あんたがおるから、あんたを残しては死に切れんかった」。
後になって、母からそう聞かされました。そこからの両親は無茶苦茶でした。弟を何がなんでも歩かせようと強引なことをしたのです。リハビリの知識などほとんどないのに、家の中で弟に歩かせる訓練を始めました。本当に無茶苦茶でした。
「とにかく歩け」と無理やりに弟を立たせては転び、転んでは立たせての繰り返し。ときに弟の膝から血がにじんでいました。それでも「とにかく歩けるようにするんや」と、毎日毎日やり続けました。
その結果だと思ってはいませんが、「一生歩けない」と言われた弟は、4才のときに奇跡的に立ち上がれるようになりました。そして、5才のときには、どうにか歩けるようにまでなりました。なんとか小学校の入学までには間に合ったのです。
弟もこれでみんなと同じ地元の小学校に通える。家族みんなで本当に喜びあったものです。
ところが、忘れもしません。そんな私たち家族に、行政はこう告げてきたのです。「歩きにくいのなら、遠くの養護学校(現在の特別支援学校)へ行ってください」と。
家から養護学校までは、電車とバスを乗り継いでしか行けません。それなのに、障害があるのに、それを理由に、わざわざ「家から遠い学校に通え」と、冷たく言ってきたのです。
「そんなことできるわけないやんか!」
唖然としました。当時の行政には、障害のある子どもを受け入れるという発想がなかったのかもしれません。障害者は普通じゃないから、別々にするのが当然で、むしろその方が障害者のためだというような態度でした。
「歩けるようにもなっているのに、おかしいやないか!」両親は行政に掛け合いました。
必死の訴えが届いたのか、トラブルが大きくなるのを避けたかったのかはわかりませんが、なんとか弟の入学は認められることになりました。
ただし、条件がつきました。両親は誓約書に一筆を書かされることになりました。
1つは「何があっても行政を訴えません」。そしてもう1つは「送り迎えは家族が責任を持ちます」。
選択の余地はなく、私たち家族は行政から出された条件を受け入れざるをえませんでした。それでようやく、私と同じ地元の小学校への通学が許されたのです。
弟の送り迎えは、4つ上の私がすることになりました。両親は朝早くから漁に出てしまっていたからです。私は自分のランドセルとカバンの中に、弟の分を合わせた2人分の教科書を入れて、弟には空のランドセルを背負わせて毎日通いました。毎日が戦場に赴くような気持ちだったのを覚えています。
正門をくぐったすぐ横にトイレがあり、毎朝そこに着いたら、端っこの個室に入って鍵を閉めて、弟のランドセルに教科書を移しかえました。そして「がんばってこいよ」と言って、弟を教室に送り出す毎日でした。