本人の幸せは本人が決めるもの
弟が小学校に入学して間もないころ、学校行事で潮干狩りに行く機会がありました。全校生徒での遠足です。1年生の弟も、5年生の私もみんなといっしょに遠浅の砂浜へと繰り出しました。
なんとか歩けるようにはなっていた弟ですが、足元は不安定な水を含んだ砂地です。その浅瀬で弟は転んでしまいます。そして、自分では起き上がることができませんでした。水の深さはわずか10センチほどでしたが、弟はそこで溺れてしまったのです。
状況を察した私が駆けつけ弟を起こし、大事には至りませんでしたが、周りにいっぱい人がいたのに「どうしてすぐに起こしてくれなかったのか」との思いは、拭い去れませんでした。
今となっては、誰にも悪気はなく、どう対応していいのかわからなかっただけなのだとは思いますが、そのときは悲しくて悔しくて唇を噛みしめました。
帰り道、ずぶ濡れになった弟の手を引いて、2人で家に帰る途中、涙をこらえて見上げた曇り空は、今も心に焼きついています。
歩くのがやっとで、1年生のときの運動会は黙って見ていただけの弟でしたが、2年生になり、急に「運動会に出たい」と言い出しました。
「そんなもん走れるか」と、私は当然のように反対しました。「笑いものにされるだけや」と。ましてや潮干狩りで危ない目にもあっているのです。父も母も止めようとしました。
「歩けるようになって、学校に通えて、それで十分やないか。これ以上、周りに迷惑をかけるわけにいかんやろ」。
それでも弟は泣きじゃくり「絶対に出たい」と言って、聞き入れません。あまりにも弟が言い張るので、結局、形だけ参加ということで運動会に出ることになりました。
当日、小学2年生の部の50メートル走で、いよいよ弟が参加する順番。「ヨーイ」「ドン」とピストルが鳴り、みんなが走り出し、次々にゴールに駆け込んできました。
私はゴール近くの席に座っていたこともあり、全体がよく見渡せるところから見ていましたが、弟はヨロヨロとよろけるような動きで、まだスタートから10メートルぐらいしか前に進んでいませんでした。
「恥ずかしい。みっともない」。そのときの私の正直な気持ちでした。ところが、弟の顔に目をやったとき、自分の目を疑いました。
笑っていたのです。満面の笑みで、うれしそうに。1人取り残されながらも、ゆっくりと前に進んでいたのです。本当にいい顔をしていました。
「ええ顔してるな」。これまでに見たこともないような笑顔をしている弟を見た瞬間、私はそれまでのすべてが引っくり返るような思いがしました。そして、涙がボロボロと止めどなくこぼれてきたのです。
「弟のため」と言いながら、本当のところは、自分が周りから笑われたくなかっただけなのかもしれない。「たとえ恥ずかしくても、みっともなくてもかまわないから、弟の気持ちを大切にすべきだったのに」と思うと、涙が止まりませんでした。
自分のことが情けなく思えて仕方がありませんでした。たとえ周りに迷惑をかけるかもしれなくても、兄として、とことん弟の味方であるべきだったのに。理不尽な冷たい社会に対して、家族として闘ってきたはずなのに。兄として弟のことを理解しているつもりだったのに。
「一番冷たかったのは、この自分だったのかもしれない」。そのようにさえ思えてきました。
本人の幸せを決めるのは、他の誰でもなく、本人。親や兄でもなく、本人。本人の人生の主人公は、あくまでもその本人。その後の私のスタンスを決定づけたエピソードの1つです。
「返しなさい」原動力となった母の言葉
心の奥底にずっと突き刺さったままの言葉があります。それは、母から言われた「返しなさい」の一言です。最近になって、もしかしたらその言葉がある意味、自分の原動力だったのかもしれないと思ったりすることもあります。
母が弟と無理心中を図るも死にきれず、家族の新たな闘いが始まったころのことです。母は私にこう言いました。
「房穂、返しなさい。あんたも1人分で普通でよかったのに、どうして弟の分まで持って生まれてきたの。弟に半分返してあげて」。
立ち上がることもできず、話すことにも苦労していた弟に対して、兄の私は、勉強も運動もクラスで一番のような状況だったのです。
母が私にそう言ったのは、おそらく1度だけだと思いますが、それ以来、私の中で「申し訳ない。なんとか返したい」というできもしない思いが、どんどんと膨らんでいったように思います。
「自分の手足を引きちぎってでも返さなきゃならない」。
テストで100点をとっても素直には喜べず、かえって「申し訳ない。ごめんなさい」と心の中で言い続けてきたようにも覚えています。勉強も運動も人一倍努力はしたつもりです。
でも、弟や他の障害のある子どもたちが「歩けるようになろう」「言葉を話せるようになろう」と必死にがんばる姿を見ながら、「自分の努力なんて、それに比べたらたいした努力じゃない」とも思っていました。
いくらがんばっても歩けるようになるとは限らず、話せるようになるとも限らない。それでもがんばり続ける姿に、努力が報われたり報われなかったりすることの不公平さを強く感じたものです。
救える命を“救える人”になるために
母からは、幼いころから「私らが死んだ後は、あんたが弟の面倒を最後まで見なあかんから、2人分稼げるようになってな」とも、繰り返し言い聞かされてきました。
精一杯、勉強して東大に行きました。子ども時代の私にとって、勉強というのは、両親を楽にさせてあげるため、弟の面倒を見続けていくための自分に課せられた使命だと思っていました。
ときどき「勉強しましたか?」と聞かれることがありますが、もちろん必死に勉強しました。世の中には勉強しなくても賢い人もいるのかもしれませんが、少なくとも私はそうではありません。本当に必死に勉強しました。日本全国の受験生全員の中で、今の自分が一番勉強しているはずだと胸を張れるくらいには、勉強したつもりです。
自分がここでがんばらないと、助けられる人も助けられなくなってしまう。私が賢くなって、力を持って、世の中を良くしないと、救える命も救えなくなってしまう。
そんな私の姿勢には、父との対比も大きく影響していました。父は、小学生のときに兄3人が戦死してしまったこともあって、小学校卒業と同時に漁に出て、家族を支えるしか選択肢のない人生を歩んできていました。
中学校にも行かせてもらえず、朝から晩まで働きづめ。学校の宿題すらやらせてもらえなかったようです。それに比べて自分は本当に恵まれていると思いました。
小学生のころ、両親に「海に行って漁の手伝いをしなくてもいいの? 宿題してもいい?」と尋ね、「いいよ」と言われると「ありがとう」と答えていたくらいです。感謝の気持ちで、勉強を続けたのです。
もっとも、家庭の事情は厳しく、塾に行くような余裕はありませんでしたし、参考書や問題集も必要最低限しか買いませんでした。図書館も近くになかったので、結局、近くの本屋さんで参考書を立ち読みしながら、独学で大学受験をしました。
ありがたかったのは、その本屋の親父さんが、私のために店の片隅に小さな机とイスを用意してくれたことです。私が大学に合格した後、親父さんは「わしが通してやったんや」と周りに言っていたそうですが、まさにそのとおりで、あのときのご恩には今も感謝しています。
おかげさまで合格となり、入学金も授業料もすべて免除にしていただきました。返済不要の奨学金も複数いただき、親からの仕送りもなく大学を卒業できたのは、今となっては幸運な時代だったと思います。
今の時代だと、おそらく同じようにはいきません。経済的に厳しい家庭にとって、私たちの社会はどんどん冷たくなっていっています。
明石から「やさしい社会」を広げる
「冷たい社会」への復讐を誓ったのは、小学生のころのことです。こんな冷たい社会の中で、生きていたくはない。このまち、この社会を少しはやさしくしてから死んでいきたい。
子ども心に自分自身に対して、固くそう誓いました。以来、怒りの炎を燃やし続けながら生きてきたような気がします。
周りの誰かが悪いとは、ちっとも思いませんでした。ともだちも先生も近所の人たちも、誰も悪い人じゃなかったからです。でも、世の中はやさしくはありませんでした。
誰かじゃなくって、何かが間違っている。世の中の何かが間違っているに違いない。その間違いをなんとかしたい。そのために賢くなりたい。強くなりたい。そして、やさしくなりたい。そう願い続けて生きてきました。
「人は生まれながらにして平等」なんて言いますが、それは嘘っぱちです。世の中は、生まれる前から、あまりに不平等です。そして、その不平等はさらに広がっています。「努力してがんばれば報われる」なんて言ったりもしますが、それもまた嘘っぱちです。実際は、報われない努力のほうがはるかに多いのです。
でも、いやだからこそ、せめて平等な機会のある社会を目指そうと思いました。だからこそ、せめて自分だけでも、報われない努力を愛する政治家になろうと思ったのです。