現代のメリトクラシー
過去、世界の多くの地域では、社会的地位が家柄によって決まる、「アリストクラシー」が主流でした。政治にも貴族のみが参加する社会は、秩序は保たれた面はあるかもしれませんが、平等とはほど遠い状況でした。
その他にも、大富豪がお金で社会を支配する「プルトクラシ―」も、暗黙のルールとして影響を持ってきました。
今広く民主主義世界で主流と言えるのは、「人間はみな平等である」という前提のもと、「才能や努力によって誰もが出世できる」という「メリトクラシー」です。
才能や教育の機会が人類に平等に与えられるものなのかという疑問は意図的に排除されていき、才能や努力は美徳として人々から評価されます。「アリストクラシー」や「プルトクラシー」よりは随分良くなったのだとしても、それでも平等とは言えず、その解像度が粗いのかもしれません。
人類の共通の目標となったSDGsの理念である「誰一人取り残さない」という主張とは、現代のシステムはいまだ乖離があるようです。
なぜ本書により様々な考えが浮かぶのか
本書にはAIが発展する時代となり能力の差はさほど重要ではなくなっていくため、大人と子供の区別なく能力信仰(メリトクラシー)から離れ、好きを追求していくべきだ、という一本の筋が通っているように感じます。
本書を読んで、受け入れられる箇所とそうではない箇所がなぜあるのか、自分の中でもはっきりしない感覚がありました。
この記事を書いている私自身は、3人の子どもを持つ父親で、会社を運営する起業家でもあって、多くの人が自分らしく生きるようになってほしいと願う一人の人間でもあります。
日常では、自宅で息子が(過剰に)ゲームをしていると、やるべきことをやってから遊びなさいというようなことを言ってしまうし、会社のメンバーが好きなことだけをして成果が全くなければ問題だと思ってしまいます。
その一方で、人それぞれは好きなことができて世の中と調和できたらいいとも考えています。しっかりメリトクラシー的価値観が埋め込まれているだけでなく、自分の中にも様々な考えがある、ということに改めて気づかされます。
あらゆる人が平等に扱われたら、という願いがイデオロギーの形になった共産主義は、長期的な繁栄に国を導くことはなく、衰退しました。国家という枠組みを前提にすると、安全保障を維持する基盤のための経済的な国際競争が行われている面もあって、生産性や革新性の高さが必然的に求められます。
会社においても、生産性や革新性への努力が各企業の発展や競争優位性を左右します。国家も企業もただ自由にして「サボって」いたら、衰退の道に至る可能性が高いでしょう。
国家や企業の繁栄と両立させながら、本書で求められている自由や好きを追求するならば、気楽に過ごすだけではいけないのかもしれません。
資本主義と民主主義が導く国家や企業の繁栄と、一人ひとりの幸福の間にはちょっとした溝があって、個人の中にも複雑性や矛盾が内在するのが、現代に暮らす私たちの姿なのでしょうか。
世の中や教育のあり方を考え直す出発点として、本書は構造的な問題に気づくきっかけを与えてくれます。本書から始まる、答えが簡単にでないであろう知的な冒険の世界に、足を踏み出してみてはいかがでしょうか。