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社会

松下幸之助が考えた「教育」

PHP研究所経営理念研究本部

2012年08月20日 公開 2022年12月22日 更新

おとなの責任を果たそう

(前略)

いつの時代でも、その時々の社会を支え、子供の躾、教育にあたるのはおとなたちである。青少年は、その時々のおとなによって教え、躾けられて成長し、次の時代を担っていく。だから、子供に対するおとなの責任というものは、いつの時代においてもきわめて重い。

もしおとなに“いまは時代がちがうから、どのように子供を育てていいかわからない”とか、“あまりきびしく言わなくても、大きくなればひとりでに事の道理はわかるだろう”といった、あいまいで、あやふやな態度があるならば、それはおとなとしての責任を放棄した姿ともいえよう。

そうしたことからも、いま私たちは、改めて子供たちに人間としての規範を教え、躾けることの意義を見直し、その内容を、人間としてのあるべき姿、理想像にもとづいて明確なものにしていかなければならないと思うのである。

今日のわが国において、規範教育、躾が十分でないことの要因としては、教え躾けるべき内容があいまいになっていることとあわせて、社会全体に、いわゆる甘えの傾向が強くなっていることもあげられよう。

私たちの社会は、昔とくらべると物もずいぶん豊かになり、生活もそれなりに安定してきている。そうなれば、当然のこととして生きるうえでのきびしさ、苦しさを味わうことも少なくなるから、どうしても考え方が甘くなるという一面が生じてくる。

そうした傾向がこの二十年ほどの間に、日本全体としてかなり強まっているように思われる。

しかもそうした傾向に加え、わが国には、戦後に入ってきた民主主義が一部誤って解釈された結果、自己中心の勝手主義ともいうべきものが広まっている。

つまり、民主主義のもとでは、各人の自由、自主性を尊重することが大事だ、ということが言われるあまり、誰が何をしようと勝手だ、他人からとやかく言われることはない、といった自分勝手な姿が少なからず見られるようになっている。

そのようなことから、子供の教育や躾についても、甘くなってしまって、たとえば、子供が勝手放題をして他人に迷惑をかけても、それをピシッと指摘してたしなめ、正しいあり方を指導していくということが適切になされない。そんな姿が家庭でも学校でも多く見られるのではないだろうか。

そうした態度についても、私はきびしく反省する必要があると思う。さもないと、甘えの風潮はますます社会全体につのって、日本が国としてたちゆかなくなる危険性も大きいような気がする。

(中略) 
今日のように豊かな暮らしの中で、ムリして働かなくても何とか食べていける、欲しいものはだいたいが手に入るという生活を続けていると、ともすれば心身がなまってきて、ちょっとしたきびしさにも耐えられない、ひ弱な体質になってしまいがちである。それは子供にかぎらずおとなでもそうだと思う。

それだけにお互いの生活が豊かになればなるほど、まずおとな自身がみずからの甘さを反省し、子供に対する躾、教育を意識してきびしくしていく必要があろう。

そうでないと、子供の自主独立の精神も育たず、ひ弱な人間が増えることになって、社会全体としての発展も期し得ないことになってしまう。残念ながらそうした兆候が、今日のわが国にはかなり見られるのではなかろうか。

ただ、そうはいっても、きびしく躾けようとするあまり、何のために躾けるのかという肝心の目的が忘れられてしまっては、いわゆる“角を矯めて牛を殺す”ようなことになってしまう。

躾の目的は、何も人間を窮屈にするためではなく、あくまでもその人を幸せにするところにある。

だから、きびしく躾けて、その人をゼンマイ仕掛けの人形のように、一つの型にはめこんでしまうというのではなく、その人間性が生き生きと発揮され、その天分や個性が存分に伸ばされるような躾でなければならない。そこが大切なところで、そこにこそ人間的な躾・規範教育のほんとうの意義があるように思う。

そうした意味でも、子供の躾、教育にあたっては、おとな自身が、人間として大切な基本は何かということを、しっかりつかんでいなければならないと思うのである。

それは結局のところ、子供の躾のためには、まずおとな自身の躾が先決ということであろう。昔からよく“子を見れば親がわかる”というが、子供に適切な躾ができていないということは、とりもなおさずその親自身に躾が身についていない、ということである場合が多いように思われる。

だから、今日の私たちには、子供に対する躾だけではなく、自分自身や、おとな同士の躾をあらためて見直すことが、求められているといえよう。

私たちが一人の人間として、あるいは一社会人としての適正な躾を身につけていくとき、これを基盤として人間としての美しく正しい行動が生まれ、自分も他の人も満足できるような好ましい生活態度があらわれてくる。

また社会全体としても、そういう人びとの態度が広く養われることによって、自由にして秩序ある姿が生まれ、それが社会の生成発展をもたらして、より程度の高い文化生活を営むことができるようになるのだと思う。 

(中略)
今日のように青少年の間にいろいろと問題が生じているということは、その責任の大半が、青少年ではなくおとな自身にある、ということであろう。そのことを私たちは、明確に自覚、反省し、事態の改善に早急に取り組まなければならないと思うのである。

 

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