才能を発揮して社会で活躍するにはどうしたらよいのか。鍵山秀三郎氏は、一見無駄とも思えるような些細なことにも懸命に取り組み、失敗を重ねることが重要だと語る。結果を重視する現代の教育の問題点を提起しつつ、才能を見つける方法を紹介する。
※本稿は、『PHP Business Review 松下幸之助塾』2012年9・10月号Vol.7』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
成功と失敗の関係とは
自分の才能を見つけて成功できたらこんな喜びはありません。ただ私の体験で申しあげるならば、自分の才能を発揮している人はどんな人かというと、まず言えることは「人が"なんだそんなことか"と思うような取るに足らないことに一所懸命取り組んでいる人」です。
世の中には、大切なことでも見捨てられ、見過ごされ、見逃されていることがたくさんあります。なぜか。ひと言でいえば、よいことだとは思っても、「なんだそんなことか」という見解で片づけてしまっているからなのです。
けれども一見些細な「なんだそんなことか」というようなことに対しても、おろそかにしないで真剣に取り組んでみる。そうすれば、必ず成功するかどうかは分かりませんが、成功の元になると思うのです。
ただし、「なんだそんなことか」ということに真剣に取り組んでやると、ことごとく失敗するという現実も、私は見ています。ここが一番肝心なのですが、そのことごとく失敗を重ねたことを乗り越えた人のみが、自分の才能というものを見つけ出して、それを生かし最後の成功を手にするわけです。
成功したいということと失敗したくないということが同じかどうかは分かりません。ただ、少なくとも何もしなければ、失敗しないですむ代わりに成功を手にすることができないのは当然でしょう。
人生において真剣に何かをやろうとすれば失敗はつきものです。しかしくり返される失敗に負けず、失敗を乗り越えた人のみが、知らないうちに自分の中のたしかな力や才能を自分で発見していくわけです。
結果をすぐに求める時代
世の中は多くの人が成功しているように見えますが、実際は成功している人はまだまだ少ないのではないでしょうか。それはなぜかというと、最近の若い人たちを見ていても分かるのは、すぐに結果を求めたがるからなのです。
たとえば、昨日勉強したから今日の試験の点数が必ずよくなるという勉強の仕方ばかりをさせるようになりました。そして実際、そういう教育をした学校から一流大学への合格率がある程度上がったので、塾でも学校でも結果重視の教育ばかりするようになりました。
見かけはよく思われるのですが、こうした方針のために、最近の子どもや若者は結果をすぐ手にすることにあまりに毒されているわけです。問題を解く技術を身につけるという勉強でよければ、それで十分でしょう。しかし、もっと大きな意味で自分を伸ばすという勉強とは違うのではないのでしょうか。
結果がすぐに出れば、判断も早くなる。無謀なことはさけるようになる。そうすると本当の意味での挫折を味わうことなく人生を歩んでしまうのです。試験で悪い点を取ること自体は真の挫折ではありません。すぐに結果が表れなくても優れた教育はあるからです。
どんな力を養うべきか
兵庫県に灘校という有名な進学校があります。その灘校で50年にわたって国語を担当された橋本武先生が行なった授業は、"伝説の授業"として知られています。
橋本先生は所定の教科書を一切使わずに3年間、中勘助の小説『銀の匙』だけを教材にして、語句を1つひとつ調べさせたり、ときには屋外で体感させたり、あえて横道にそれるようなことをして読んでいく、という授業をしたのです。
もちろん、そのやり方を実行するまでには、橋本先生の葛藤や試行錯誤があり、始めたときは生徒からも「どうやって勉強していいのか分からない」というとまどいの声があがりました。授業を参観した教育学者からは「横道にそれすぎではないか」との批判の声も出たのです。
しかし、この授業が軌道に乗ると生徒のほとんどが支持をしてくれて、橋本先生は「横道にそれすぎ」との批判を"認めていただいた"と受け取ったそうです。その成果は最初にこの『銀の匙』授業を受けた世代が卒業する年、東大合格者数初の日本一という快挙となって表れました。
橋本先生は、なにも東大合格者を増やすためにこの授業を行なったわけではありません。何よりも「考える力を養わなければいけない」という問題意識で授業方式を工夫し、1つ選んだ作品『銀の匙』をどこまでも掘り下げているうちに、生徒が物事を深く考えるようになった。そのことが結果的に、東大合格者を増やすことになったわけです。
今の時代は、あまりにも結果を早急に求めすぎるためにテクニックに走り、じっくりと考える力や耐える力を養うことがおろそかになっています。人間として、一番大事な教育が欠落している。私には自分が根本から鍛えられる生き方をしない限り、自分の真の才能を見つけ出すことはできないのではないかと思えるのです。
今の若者に「努力しろ」と言えば「努力している」と答えることでしょう。要は、何を努力するべきなのかということであって、求める努力の質が違うのです。ですから、取るに足らない簡単なことを徹底して行うという努力を私は勧めたい。それが何であるかは、自分が決めることです。
才能が引き出される転機と
よく才能を引き出すというときに、場を与えることで伸ばしたとか、小さな成功体験を積ませたとか、あるいは試練をひたすら与え続けたとか、いろいろなケースがあると聞きます。これは人によってまったく違いますから、一概にほめればいいとか、叱ればいいということで決められるものではありません。
実際に世の中には、とんでもなく劣悪な家庭環境の中から偉大な人物が出たり、反対にきわめて恵まれた家庭から犯罪者が出たり、といった例があります。才能が引き出される転機に、こうだという方程式はありません。
実は私も家庭が裕福だったころはたいへんな悪童でした。12歳までは学校の宿題などやったことがありません。全部きょうだいにしてもらってそれを学校へ持っていくだけだったのです。
ところが以前にご紹介したことがありますが、太平洋戦争の影響で東京から岐阜に疎開せざるをえなくなって、経済状況がガラリと変わってしまいました。のんびりした生活だったのが、農作業に追われ、勉強する時間すらなくなったのです。
しかし、そうした境遇になってことさら母がたいへん苦労している様子を見たことで私は発奮したのです。これまで時間があったにもかかわらず、宿題もきょうだいに任せていた私が、ほんのわずかな時間を惜しんで勉強するようになり、試験勉強ばかりしている人より実力がつきました。
動機を逃してはならない
私は、みずからの才能がなかなか発揮できないことを、環境のせいにしたり時代のせいにしたりしている限り、その人は絶対に日の目を見ないのではないかと思います。
まずは自分を取り巻いている条件をすべて受け入れる。そしてその中で自分は何ができるかをあせらずに考えることが必要です。なかには自分の才能について興味を持っていない、人生に取り立てて目標もないという人もいるかもしれません。
しかし、私はせっかく自分の人生が与えられているわけですから、ある程度は向上心であるとか、適切な好奇心を持っているほうがよいと考えます。まったく自分に夢を持たず、ただ毎日を無難に生きていけたらそれでいいというのではもったいない。
人生は長いのです。自分が人生を賭けるに足る動機は必ず与えられます。それを逃してはなりません。私の場合は、12歳で疎開したときにようやく気づいた母親の苦労が動機になりました。「これは今までとんでもない親不孝をしてきた」と。本当にそう思いました。以来67年間、もうじき79歳の私は楽をしようという気が起こらないのです。
1933年東京生まれ。’52年疎開先の岐阜県立東濃高等学校卒業。’53年デトロイト商会入社。’61年ローヤルを創業し社長に就任。’97年社名をイエローハットに変更。相談役を経て、現在はNPO法人「日本を美しくする会」相談役。著書に『掃除道』『鍵山秀三郎「一日一話」』(ともにPHP研究所)など多数がある。